久しぶりの定時上がり。珍しく御幸より先の帰宅だ。いつもの癖でドアを開けながら「ただいま」と言うものの、当たり前だが返事はない。立春を過ぎて少しずつ、けれど着実に日が長くなってきたが、午後6時を回ればさすがに暗い。


ハイヒールを脱ぎながら電気をつければ、朝のバタバタがそのままの形で残っていた。朝食を食べたキッチンのテーブルの上に置き去りにされたマグカップに広げたままの新聞、穿いてる途中で伝線に気づいて脱ぎ捨てたストッキング。恥ずかしいぐらいそのままだ。いつも帰宅するときには、もうすっかり御幸が片づけてしまっていて、目にすることはほとんどない。わたしにとっては新鮮なのだが、この片づけを日課にさせてしまっていることが何とも複雑な気分だ。本人に言えば、「んなこと気にすることねーって」と軽く流すのだろうが(そして本当に奴にとっては大したことないのだろうが)、それでもやっぱりいい気はしない。

てきぱきとスーツを脱ぎ捨てて普段着に着替えると、朝の残骸の殲滅に取りかかる。新聞はたたんで所定の場所へ、ストッキングはゴミ箱へ。ベランダに出て手早く洗濯物を取り入れ、朝食の洗い物を一気に片づける。仕事並みの集中力で、帰宅後10分、まあこんなもんだろう。


こんなときぐらいは、と冷蔵庫を開けて中を見回す。料理好きな御幸とちがって作れる物はたかがしれているが、全くできないわけではない。大学時代は一応一人暮らしだった。一応、といったのは、御幸と付き合ってからは何だかんだ一緒に過ごすようになって、4年間のうち半分ぐらいは二人暮らしだったからだ。大学生あるある。そうなると自動的に料理は御幸担当になって、一人でキッチンに立つ機会は減った。わたしがするのはお米をとぐとか、卵を焼くとか、野菜をちぎってお皿に盛りつけるといったごく簡単なことだけで、がっつり火を使う調理は御幸がやっていた。
……やらせていたわけではなく、むこうが好きでやっていたということを強調しておく。

野菜がいっぱい残ってるから今夜は鍋にしよう。
冷蔵庫から白菜やら長ネギやら、目についた野菜を手当たり次第取り出して、ざくざくと切っていく。切った野菜を見て、ちょっと大きすぎるか?と思ったけれど、得意の「まあいいや」で流すことに決めた。


得意の、まあいいや。根本的に雑な性格なのだ。
食べやすいかどうかよりも先に、食べられれば何でも同じでしょ、と頭に浮かぶ。口にさえ入れば、あとは胃に運ばれて、消化されて、栄養になる。そりゃあまあ小さく切れば体の負担は少ないかもしれないが、よく噛めばいい話だ。大抵の人は、よく噛んで食べるようにと小さい頃から言われているんだから。


『何やっても雑なのよ。子どもじゃないんだから、もう少し考えたらどう』

今日、仕事で大失敗をした。原因は、まあいいや、と確認を怠ったことだ。なんとかなるだろうと楽観的に構えていたら、なんともならなかった。あの時しっかり確認しておけば、と今更後悔しても遅い。
失敗した自分に投げられた言葉。耳に焼き付いて離れない。自分が雑だってことは痛いほど分かっている。それで周りに迷惑をかけてしまったことも。分かっているからこそ、言葉が棘のようにぐさりと深く刺さった。


土鍋を取り出したところで、玄関から「ただいまー」と声が聞こえる。御幸が帰ってきた。








「鍋?」

おかえり、と土鍋を抱えたまま答えたわたしを見て、御幸は「いいねー」と笑った。

「いいねーってそんなに鍋すきだっけ?」
「いやいやそうじゃなくて。家に帰ってきたらこうやって出迎えてもらえるのがいいねーってこと」

疲れ吹っ飛ぶ、ってそんな目を細めて笑顔で言われると、何とも言えない気持ちになる。大抵わたしの方が帰宅が遅くて、それでも文句ひとつ言わずにおいしい夕食を作って「おかえり」と迎えてくれる御幸の本音が聞けた気がするからだ。
ごめんね、と言った方がいいのだろうか、とわたしが考えている間に、ジャケットをリビングの椅子にかけた御幸が近づいてきて、手元を覗き込む。

「おーらしい何とも豪快な包丁捌き」
「とりあえず雑って言いたいことは分かった」
「あ分かった?ちょっとは賢くなったじゃん」
「最低」
「冗談だって。それにしても野菜でかすぎだろ。もう半分ぐらいにしないと火通るまで時間かかる」
「あ」
「着替えてくっから、まだ鍋に入れるの待っといて。折角だから鶏団子も入れようぜ。は生姜出してすりおろして」


ネクタイを緩めながら一旦部屋に引っ込む御幸を尻目に、冷蔵庫の野菜室から言われた通り生姜を取り出す。使う分だけ切り分けると、皮をこそげ落としておろし金で擦る。御幸の真似だ。「生姜の皮は剥かないのが正解らしいんだけど、やっぱ見た目微妙だからな〜」と言いながら、ごぼうを削ぐように、包丁を器用に動かして表面の薄い皮を削っている姿を何度も見たことがあった。小さい頃から料理をしている、というだけあって、料理の腕は下手するとうちの母親よりも上かもしれない。



「お前、料理すんならエプロンぐらいしろ。ほら」

着替えが済んだ御幸は、ジャージの長ズボンにボーダーのカットソー、それから紺色のシンプルなエプロンを身に着けていた。これがまたむかつくほどよく似合っているからどうしたものか。

エプロンめんどくさい、というわたしの返事を聞かなかったふりをして、御幸はわたしにエプロンを寄越すと、手をざっと洗い、まな板の上で待機させられている野菜たちを手際よく刻んでいった。ザク、ザク、とその小気味のよい音もかっこいい。同じ野菜を、同じ包丁で切っているのにこの差は何だ。
ちぇっ、と渋々エプロンを着け、残りを生姜をさっさとすりおろす。



「御幸、生姜できた」
「このボウルの中に入れて。あとそこの調味料合わせたやつも一緒に」

鶏のひき肉をボウルの中でこねながら、口であれこれと指示をとばす。ひき肉にすりおろした生姜と合わせ調味料を加えて、軽く混ぜ合わせる御幸の横顔はとても真剣だ。野球をしているときと同じ顔をしていると思う。土鍋にはすでにだし汁が火にかけられていて、御幸はスプーンを使って鶏団子を一口大に切り分け、煮立っただし汁の中に落としていった。
料理をしているときの御幸の動きには一切無駄がなく、とにかく手際がいい。心底感心するレベルの動きだ。速いけど、こぼすようなことはなく、骨の太そうな大きな手でとても丁寧に作業をする。わたしは料理をする御幸をの手元を見つめるのがすきだった。

すきだけど、それと同時に息苦しくもある。わたしは昔から何をやっても雑だった。お茶を入れるだけでも周りにボタボタとこぼすし、ナイフとフォークを使うお店に行けば、ガチャガチャと音を立ててしまって雰囲気をぶち壊す。ドアを閉めればバタンと音がする。階段も静かに上がれない。はさみで切った跡は見るも無残なギザギザ。細心の注意を払っているつもりだが、なんともならない。それさえも、まあいいや、と諦められる自分が恨めしい。



「よし、あとはカセットコンロでいいだろ。、コンロ準備」
「分かった」

いつの間に野菜を入れたのか、気づけばもう鍋はほとんど完成していた。いろんな野菜が土鍋の中にきれいに並べられ、ぐつぐつと煮えている。ボンベにまだガスがあることを確認すると、カセットコンロをリビングのこたつに運んだ。鍋はこたつで、というのは御幸ルールだ。鍋は狭いところで顔を近づけて食べるのがいいのだそう。

「御幸、準備オッケー」
「おう。じゃあ鍋行くぜ」

御幸は厚手のミトンを両手にはめて、中身のずっしりと詰まったあつあつの土鍋を運んできた。カセットコンロに火をつけると、鍋はすぐにまだぐつぐつと音を立て始める。勢いよく噴き出す白い蒸気に、視界がゆらゆらと揺れる。わたしはつまみをひねって火を少し弱めにした。

すでにこたつに足をつっこんで腰を下ろしたわたしとは反対で、箸や取り皿をせっせと運ぶ彼氏の姿をぼんやりと見つめる。
鍋の蒸気で眼鏡が真っ白になるな、とどうでもよいことが頭に浮かんだ。

はー?飲む?」

キッチンから聞こえる声に、うん、と返すと、御幸が缶ビールを2本もって再登場した。よっこいせ、と言いながら、こたつに足を入れる。こたつ布団をまくられて挿入された冷たい足に、こたつの中の空気が一気にぬるくなった。正方形の、ちっちゃな二人用のこたつなんてこんなもんだろう。
もうちょっと足ひっこめろよ、というお決まりのやりとりをしている間に、鍋はいい感じになった。

長いリーチを活かして土鍋のふたを開ける御幸。できるだけ体を離して、立ち込める蒸気から眼鏡を守る。手際よく野菜と鶏団子を取り皿に盛りつけると、二人して缶ビールを開けた。グラスに注ぐのも面倒で、お互いに缶のまま口を付ける。

「あー生き返る」
「発言がおじさんだね御幸」
「ほっとけ。そっちも平日は飲まねえんじゃなかったのかよ」
「いいの、そういう気分なの」
「おお、そりゃお疲れ」

しっかり火が通っていながらもほどよく食感のある白菜に、なんとも形容しがたい噛み応えだけど甘くてとろける長ネギ。あつあつの豆腐に、生姜が効いている鶏団子。ふっふっ、と冷ましながら口へ運ぶ。おいしい。
結局、後から帰宅した御幸を働かせてしまった、とこう見えてもちょっと落ち込んでいる。




「んで?今日は何やらかしたの」

なんでそれを。予想外の言葉にバッと顔を上げると、鍋の湯気越しに頬杖をついた御幸と目が合った。当たった、とでも言いたげな目元。

のことなら何でも分かるっての」
「……なんで」
「元気ないです、って顔に書いてある」
「うそ」
「まあ他の奴には分かんないかもしれねえけど、俺天才だからなー」
「…………」
「黙んなよ。滑ったみたいだろ。分かるよフツー。どんだけ一緒にいると思ってんだ」

やなこと溜めてもいいことねーぞ、の言葉に、ぽつりぽつりと今日の失敗を口にする。本当は思い出すのも億劫だ。
声に出してみると、自分が思った以上に傷ついていたことが分かる。自分は未熟だと頭では理解しているつもりでも、未熟であることを突き付けられ、認めなければいけない現実はやっぱりきつい。
何年この仕事してるの、なんでこんな単純なミス――わたしがわたしを責める声が脳内に響く。

御幸は時々箸を口に運びながら、うん、と頷いたり、それで?と促したりした。御幸は優しくて厳しい。聞き役になってくれる反面、自分の傷口と向き合わざるを得なくなる。自分の嫌なところもいっぱい見えてくるから苦しい。でも、御幸は隣にいてくれる。

「……以上、報告おわり」
「全部吐いた?」
「うん。いっぱいしゃべったらのど乾いた」
「おービール飲め」

すっかりぬるくなってしまったビールを口の中に流し込む。もう一本いる?という御幸に、もういいと断りを入れた。もう一本飲んだら、明日仕事に行くのが嫌になってしまう。

「明日が休みだったらいいのに……」
「じゃ休む?一緒に休んで映画でも観に行くか」
「行きませんよ。休んだらみんなに迷惑かけるもん」
「大丈夫大丈夫。1日休むぐらい大したことねえって。映画観て、ランチして、ドライブ。どう?」
「どう?って何さわやかにズル休みの計画立ててんの。真面目に働け!」
「はは、冗談だって。、雑なくせに真面目だからなー。そんなんじゃ生きづらいぜ。ほどよく手抜かねーと」

わたしより真面目なくせに、と言えば、俺は適度に手を抜いてるからいーの、と返ってくる。
適度に手を抜くということがイメージできずに不服そうな顔をしていたら、御幸は「そうだなー」と視線を天井に向けた。

「例えばさ、自分に向いてない仕事があったらどうする?」
「嫌だな〜と思いながらやる」
「俺、自分に向いてないと思ったら先輩でも後輩でもバンバン仕事振るぜ。得意な人がやったほうが効率いいからな。そういうことしねーだろ」
「そんなのあり?」
「ありあり。もちろん、その代わりに他の人がやり辛そうにしてたら引き受けたり手伝ったりする。でもそうすればお互い楽だろ。手を抜くっつーのは別にテキトーにやれってことじゃなくて、工夫するってこと」
「わたしたちぐらいの歳ってさ、若いし何でもやってみるってのが求められない?」
「まあどうにもならないときもあるけどな。それに、中には「えり好みしてる」ってよく思わない奴もいるだろうけど、要は結果。うまくいくに越したことはねえんだからさ。頼んだ分は別のところを引き受けて、持ちつ持たれつのバランスが取れてれば、そう問題にはなんねーよ」

だから無理してできないことをやる必要はねえってこと。
そんなことにも気づかないようじゃまだまだだなチャン、と茶化すように御幸が笑う。
実際は口で言うほど簡単ではないだろうし、きっと振る以上にたくさんの仕事を引き受けて貸しを作っているのだろう。頭の回転が速くて、人一倍気ぃ遣いな御幸が、組織の中で上手に立ち回っている姿が容易に想像できる。御幸が働いているところを見たことはないけれど、「これぐらいやりますって。代わりにこっち、ちょっと手伝ってもらってもいいッスか」なんて言ってるところが目に浮かぶ。



は雑なとこあるけどさ、その分俺が丁寧だからいいってことで」

足して2で割ればちょうどいいだろ、と言いながら、御幸はわたしの頭をぐしゃぐしゃっと撫でた。
その大きな手で、まるで犬を撫でるみたいに。

こんなふうにわたしを励ますのもお手の物。
できた男だと心から思う。料理もうまくて、人のことをよく見ている、悔しいくらい器用な男。









2015.02.23