「はあ……」

目の前にうずたかく積み上げられた白い紙の群れを目の前にして、溜息以外の何が出せるというのだろう。



***



放課後の教室。西日が窓から差し込んで、自分を除いて誰もいなくなったこの空間をオレンジが包んでいる。
周りは賑やかなようで、校舎中には吹奏楽部の演奏が鳴り響いているし、外は外で運動部たちの活きのいい掛け声が飛び交っている。
教室はもはや忘れ去られてしまったかのように、ひっそりと静まり返っていた。自分の呼吸音でさえうるさく感じられるほどだ。
口から何度目かわからない溜息が漏れそうになるのを、はぐっと飲み込んだ。


仕方ない、とは思う。黒板の隅に、日直:と書かれている。たしかに今日は日直であり、クラスを代表する雑用係であることに異論はなかった。担任が、「ここにあるプリントを教室に運んで、1部ずつ取って冊子にしといてくれ」と言った以上、やらざると得ないだろう。
は日直だからという理由で自分を納得させようとするも、明らかに3クラス分は冊子ができそうなプリントの量と、本来はここにいるべき日直の片割れがいない事実に、腹の虫はおさまりそうにない。

「とりあえず囲碁部にでも入ろうか」

囲碁できないけど。囲碁部じゃなくても、将棋部でも美術部でもコンピューター部でもなんでもいい。結局入ったところで行かないからだ。それでも部活にさえ入っていれば、「私も部活があるから」という言い訳ができるようになる。今は、部活に入っていないというだけで立場が弱すぎる。
実際に日直の片割れである彼は、運動部レギュラーという立場を最大限利用していつだって面倒事から逃れているではないか。背が高くて整った顔、完璧なルックスに向日葵のような黄金色の髪を揺らしている、おそらく学校一有名な男。


こうしていても、始まらない。は立ち上がると、プリントの山に手をかけた。順番を崩さないように気を付けながら、一種類ずつクラスメートの机の上に並べていく。山がなくなる頃には、教室にあるほとんどの机の上が白く染まった。


は携帯を取り出してメールを打つ。これでは、予定していたバンドの練習には間に合わない。遅刻する謝罪と理由を簡潔に書くと、送信ボタンを押した。

がバンドを始めたのは、大学生の兄の影響だ。バンドでギターを弾いている兄について行ってライブを観て以来、皮膚がビリビリと痺れるような生のサウンドの虜になった。
私もバンドやりたい、と駄々をこねて兄からギターのお下がりをもらうと、教則本と睨み合いながら練習に明け暮れた。最初はすぐに飽きると高をくくっていた兄も、妹の珍しく熱心な様子に感心して、バンド練やらライブに時々連れて行ってくれた。そのせいもあって、のバンド熱は一年経っても冷めることはなく、ギターの腕前もなかなかのものになった。
そして、たまたま兄の組んでいたバンドのギターボーカルが抜けた時、「お前やってみる?」とに声を掛けたのだ。ボーカルには自信はなかったものの、バンドの一員になれるということが魅力的で、二つ返事で引き受けた。
ただ、がバンドに入ると言ったとき、母親は渋い顔をして首を縦に振らなかった。それもそうだろう、大学生の兄と違って、はまだ中学生なのである。未知のものが宝石のように輝いて見える多感な時期、精神的にも未熟で正常な判断力を持たない子どもを、親の目の届かない場所に送り出せるほど無責任な親ではなかった。
は、分かるけどでも、と母親に食い下がって頼み込んだ。成績も落とさないようにするし、門限も守るし、悪いこともしない。絶対守る。母親も娘の強い意志の前に、折れざるを得ず、それならばと条件付きでバンド加入を認めたのだった。練習もライブも必ず兄が同伴であること、門限は八時、がいる間はアルコールと煙草は禁止。一度でも破ったらアウトよ、と母親は言った。

がバンドに入って早半年、兄もバンドのメンバーも良心的で、が条件を守れるよう気遣ってくれている。練習は極力夕方にして、ライブも出番を早めてもらう。ライブでの評判も悪くなく、至って健全で楽しいバンド活動を続けていた。ちょうど、今週末にもなじみの小さなライブハウスでライブがある。


は鞄から音楽プレイヤーを取り出して、イヤホンを耳に突っ込んだ。さっさと片付けてしまおう、と教室の隅からプリントを一部ずつ重ねていく。諦めてしまえばやることは早い。崩したプリントの塊が、今度は一冊分のまとまりになって再び山を築いていく。しかし、いかんせん量が多い。指先の油分はすでに紙に吸い取られ、すべりが悪くなっていた。どこかに二枚重なってても私のせいにしないでよ、と心の中で呟く。



***



ふう、これで半分ぐらいか。
教室を見渡すと、まだまだ白は広がっていて先は長そうだ。それでも少し疲れた。ちょっと休憩でもするか、とは近くにあった椅子を引出し、腰をかけて身体の力を抜く。耳から絶え間なく入ってくる音楽に意識を傾けていたとき、不意に教室のドアがガラっと音を立て、意識が引き戻される。
そこには、部活に行ったはずのクラスメートの姿があった。ジャージ姿で、なぜか小脇にうさぎのぬいぐるみを抱えている。そういえば、今日教室でも見かけたな、とは思った。ラッキーアイテムだか何だかで、彼はいつも何かしら変なものを持ち込んでいる。あの薄情な日直の片割れと同じ部活で、チームメイトだったはずだ。ぺらぺらとしゃべって場を和ませ人の心をうまくつかむ男と、寡黙だがやや高圧的な態度の男。にしたら、この二人が同じスポーツに打ち込み、チームとして成り立っていることが不思議だった。


「どうしたの緑間くん」

人がいることが意外だったのか、緑間は少し驚いたような表情でを見る。それと同時に視界に入ってくる白。教室中を見渡して、机の上を埋め尽くすプリントに眉をひそめる。


「弁当箱を忘れただけなのだよ。お前こそ何をしている」

緑間はカツカツと自分の席に近寄ると、机の横にかけてあった紺色の手提げを掴んだ。そして再び、に視線を合わせる。座っているといつも以上に見下ろされている感じがするな、と不快になったので、も立ち上がる。まあ、立ち上がったところで見下ろされていることには変わりないのだが。

「日直だから、担任に頼まれたの。このプリント、冊子にしておいてくれって」
「この量を一人で、か」
「いやいや、担任はもちろん二人でやってると思ってるでしょ」

こんなの一人で引き受けるわけないだろう。
こう見えて案外ぼけてるんだな、とは頭の中で呟くと、なんとなく馬鹿にされたことが伝わったのか緑間の目が細められる。
緑間は頭を動かして、黒板を確認する。の横に並ぶ、半分消えかかった黄瀬という文字。緑間は、きゃいきゃいと騒ぎ立てながら部活に参加する男の姿を思い浮かべた。
あいつは日直だったのか、と今気づくほど、黄瀬が日直の仕事をしているところを見ていない。


「黄瀬を呼んでくるのだよ」

緑間が踵を返そうとするところを、が「いいよいいよ」と引き留めた。
緑間は、なぜだ、と不満そうな顔をしている。

「気持ちよく部活してるとこなんでしょ」
「そうだとしても、黄瀬も日直だろう。手伝うべきだ」
「黄瀬くん知ってるよ。知ってて部活に行ってんだからさ。 うまく逃げたんだから、わざわざ連れ戻すのも可哀相じゃん?」

は困ったように笑いながら、緑間に言い放つ。はからずも棘のある言い方になってしまった。相性はよくはなさそうな二人だが、チームメイトへの嫌味を聞いて、気分を悪くしない人はいないだろう。

失言だと思いながらも、私は思ったことを言ったまでだ。それで緑間が怒ったとしても、謝るつもりもない。
は黙って作業に戻ることにした。また1枚ずつ、紙を手元に集める。

緑間は、ふんと鼻を鳴らすと、

「女子は黄瀬を甘やかしすぎなのだよ」

だからこうもつけあがる、と緑間もと同じように紙を集め始めた。

甘やかしている、か。確かに無理にでも引き留めて日直の仕事をさせることもできなくもない。が、そんなことをしたら周りの女子から非難を浴びるに決まっている。相手は黄瀬くんなのよと責め立てられる自分を容易に想像することができる。

「とは言ってもねえ……」

は紙の束を、机にトントンとぶつけて端を整える。

「憧れの黄瀬くんが部活に行こうとしてるときに担任が面倒を言いつけるとするでしょ。
 それで黄瀬くんが『ああ困ったな、今から部活なんスよ。遅れると赤司っちがうるさいし……』って言う。もちろん、すごく困った表情付きでね。
 そこまでされたら、女の子たちに残されてるのは『大丈夫!やっておくから部活行きなよ』しかないと思わない?」

「まあ、がそう言ったとは思えないがな」

手の動きを止めることなく緑間が返答する。緑間は、長い指で手際よくプリントを集めると、ん、とに突き出した。几帳面そうな見た目とは裏腹に、雑に重ねられた紙に少々面食らう。しかしが黙って受け取ると、彼はまた一からプリントを手中におさめていく。彼の中で、紙をまとめる役と、整えてホッチキスで留める役に分担されたようだった。はホッチキスで、左端を二か所綴じた。

はその時のことを思い出す。やっておくと言われたあとの黄瀬の笑顔に、どれだけ女の子が頬を赤らめたことか。

「勝手に『やっておくね』って言っておきながら誰一人手伝いもしないってどうよ」
「そうなる可能性を考慮しなかったわけではないのだろう」
「もともと期待はしてなかったけどね。でもそこで手伝っておけば明日の会話のきっかけにでもなるっていうのに、詰めが甘い」
だって、手伝ってくれたことを黄瀬に言ってやるとでも言えばよかったのだよ。俺に言わせれば、お前も人事を尽くしていない」


は緑間がプリントを集めている間に、先ほど自分でまとめておいた紙の山をひたすらホッチキスで綴じていく。一人の時と比べて、何倍ものスピードで仕事が片付いていく。
ラッキーアイテムやら変な語尾でクラスからは完璧に浮いている緑間だが、にとっては黄瀬の何倍もまともに思える。大体、手伝う義理などなかったはずなのに、彼はこうしてここにいて紙の束を作り続けている。


「もしも緑間くんと黄瀬くんのどちらかの味方をしなきゃいけない状況になったらさ、私は迷いなく緑間くんの味方になるよ」
「何なのだよ急に」
「たとえクラスの女子全員が黄瀬くんの味方になったとしてもだよ」
「ふん、お前一人に味方してもらったところでどうなるというのだ」
「いや多分どうにもならないけど。黄瀬くんより信用に足る男だなぁと思っただけだよ」

そもそも黄瀬と比べるという前提が間違っている、と緑間は眼鏡を押し上げた。の言っていることも相当だが、緑間の言っていることもなかなかであり、どちらも黄瀬が聞いたら憤慨するだろう。この学校に、黄瀬に対する毒を吐ける相手がいたとは。黄瀬に対する不用意な発言は女子から攻撃の的にされる危険性を孕んでおり、はこれまで自分の中で消化してきた。今日もそのつもりだったが、緑間になら吐き出しても許されるのかもしれない。

は変わっている」
「変わってるって、、、それを緑間くんが言う?」
「黄瀬を煙たそうに見る女子がいるとは思わなかった」
「そりゃあ、黄瀬くんってやることあざとくてやだ、なんて公言したらファンの子たちに殺されるでしょ。自らの首を絞めるようなこと言わないよ」
「俺としてはそうやってあいつの天狗になった鼻をへし折ってやりたいのだよ」

は、せっせと手を動かし続ける緑間の背中を見つめる。手元のプリントは全て綴じて冊子にしてしまった。
机の上のプリントはかなり少なくなっている。あと三、四往復もすれば、すべてのプリントが冊子の形に落ち着くであろう。


「黄瀬くん見てるとさ、なんでもかんでも計算してるように見えてさ、いけ好かないやろうだなって思っちゃうんだよね」
「計算するほど脳みそが詰まっているようには思えないが」
「いや、あれはかなりの確率で自分の見え方計算してるよ。今日だってそう。『部活が……』って言えば、逃げられるの分かって言ってる」
「根拠は?」
「しいて言えば表情かな。中学生の表情じゃないよね。私年上とつるんでること多いけど、黄瀬くんはそういう雰囲気。大人って言えば聞こえがいいけど、悪く言えば腹の中で何考えてるのか分かんなくて胡散臭い」


緑間は最後の一枚を回収すると、に手渡した。パチ、パチ、と留めて終了。
が数十分かけたところを、緑間はものの十分で片づけてしまった。は出来上がった冊子の山を教師机の上に乗せる。その重みに、机がギシと呻き声をあげた。



***



は鞄を持って、緑間と教室を後にした。楽器の響く廊下を歩きながら、ふと、気づいたことを言葉にする。


「随分、爪をきれいに整えているんだね」

プリントの扱いは案外雑だったのに、とは言わない。

「ああ、シュートタッチに影響するからな。毎日磨いている。は、かなり短く切っているのだな」

指先に視線を感じて、なんとなくむず痒い。クラスの女子とは違って、手入れをしているわけではない。

「うん、私ギター弾くから、長いと弾きにくくて、すぐに切っちゃうの」

は自分の指先を見ながら答えた。そういえばギターを弾くことを学校の人に話すのは初めてだ。
毒を吐いたことで、の中でなんとなく緑間に親近感が湧いてしまったのかもしれない。不覚にも、もっと仲よくなりたい、と思ってしまった。




「ね、手出して」

じゃあな、と言った緑間に、は手を出すよう要求した。緑間は、何なのだよ、と眉間に皺を寄せつつも、爪のきれいに整えられた手を素直に差し出した。

その手の上に乗せられた、一枚の紙と飴玉。


「今週末、ライブハウスで歌うんだ。チケット一枚余ってるからあげる」

いらなかったら捨てて。今日は手伝ってくれてありがとう。
それだけいうと、はすたすたと歩き、校門の先に消えて行った。



「やっぱり、変わった女なのだよ」

緑間は、手の中に残された物をしばし見つめると、ポケットに押し込んだ。チケットがくしゃりと折れた音がした。
とっくに休憩時間は終わっている。すべては黄瀬のせいだ、と弁解の言葉を頭の中で反芻しながら、体育館へと足を進めた。






2013.01.14