午後七時二十分。最終下校時刻が近づき、校内はやや慌ただしい。七時半きっかりには、正門は完全に施錠されることになっている。抜け道はなくもないのだが、下校時刻の守れない部活に対するペナルティーは決して軽くない。先月、野球部が二週間の部活停止措置を食らったことは、生徒たちの記憶に新しかった。運動部からは練習時間が短いと不満も出ているが、それも今月いっぱいの辛抱である。来月になればもう三十分長く部活ができる。
「はーまじなんでこんな寒いの。意味わかんないし」
肌に当たる風はひどく冷たく、突き刺すように痛覚を刺激する。ビュオオと音を立てる北風を顔面で受けると、夜になってぐっと下がった気温を恨むように、隣を歩く大男は文句を垂れた。口から吐き出される息は見事真っ白に染まっている。部活で温めた身体は、着替えですっかり冷えてしまっていた。
紫原は部室から出て以来、ずっと首を肩に沈めて猫背を保っている。緑間は内心、疲れそうな姿勢だと想像しながらも、動物は寒さから身も守るために体を丸めて表面積を小さくする、という話を思い出していた。国語だったか、そんなような説明文が教科書に載っていたような気がする。紫原の猫背も、無意識に大きな図体の表面積を縮めようとしてのことなのかもしれない。
「くそ寒いのに平気な顔してるミドチンもむかつく」
「冬なのだから寒いに決まっているのだよ。お前の言ってることこそ俺には理解できん」
「ああもう冬とかなくなればいいのに」
紫原は、持っていた紙袋を漁った。カサカサという音を立てて現れたその手にはカップケーキが1つ。柄のついたビニール袋に入れられて、口は金色のビニタイで留めてある。皺の数も計算されたようなラッピングからは、作り手の愛情が感じられる。そういえば、今日の調理実習で菓子を焼いていた班があったな、と緑間は納得した。
紫原は緑間の視線を気にすることもなく、その丁寧なラッピングを無感動に剥がすと、物を口へと運ぶ。たった数秒で平らげてしまった。うん、ふつーかな、と一言吐き出す。もはやゴミになってしまった袋とビニタイを紙袋に押し込むと、胃袋へ消えたはずのカップケーキが再び手の中におさめられている。次のそれも、きれいにラッピングが施されていた。
「一体いくつもらったんだ」
「オレのじゃないし。黄瀬ちんがもらったやつをもらっただけ。んー何個あるんだろ」
紫原は紙袋を覗くも、中はほとんど真っ暗で数えようがない。十個ぐらいじゃないの、と雑な返事をした。彼にとっては、数も、凝った包装も、ましてやそれを作った人間の想いにも、欠片も興味はない。ただその甘さが自分の空腹を満たしてくれる、それだけで充分だった。だからこそ、平気な顔をして貰い物の貰い物を消費することができるのだ。
「誰が作ったか分からないものなど、気持ちが悪くて食べられないのだよ」
「ほんと潔癖だねー」
紫原は気にも留めず、二つ目のラッピングを剥いでいく。緑間の、潔癖さも真面目くさったところもすでに慣れっこだ。隣を歩けば、大抵説教じみたことしか出てこない。だから周りは距離を置きたがる。
(損な性格だよなァ)
ま、別にどうでもいいけど。紫原はカップケーキを口に押し込んだ。
***
「緑間?」
正門を出たところで、背後から呼ぶ声に二人は足を止めた。
紫原には、その声に聞き覚えはない。振り返ると、見知らぬ女の子の姿。
普段から女子とは関わりたがらない緑間のことである。もともと愛想がないのに、女子相手となるとさらに無愛想に磨きがかかる。それも周りから距離を置かれる一因なのだが、本人にとってはどうでもよいらしい。
そんな緑間を呼び止める女子は桃井ぐらいだと思っていた。そのくらい、紫原にとって、緑間に声をかける女子の存在が意外だったのである。
「やっぱり緑間だ」
「ミドチン、誰」
「ああ。クラスメイトなのだよ」
は紫原の顔を見て、「です」と軽く会釈する。「どーも」とだけ返した紫原の代わりに、緑間が「バスケ部の紫原敦だ」と付け加えた。
たまたま押し付けられた雑用を手伝ってもらったことがきっかけで、は緑間と話すようになった。親しいというほどではないが、顔を合わせればなんとなく言葉を交わす程度の間柄だ。の「緑間くん」という呼び方も、いつのまにか「緑間」に変わっていた。それは最初からそうであったようにとても自然な流れだった。
が、途中まで一緒に行ってもいいかと確認すると、三人は歩き出す。緑間を挟んで、歩道側に、車道側に紫原が並んだ。
紫原は若干の居心地の悪さを感じるものの、疲れやら寒さやらで考えること自体面倒になって、目の前のお菓子に集中することにする。
はで、緑間以上の大男に、人間ここまで大きくなれるものかと驚きを通り越して恐ろしさすら感じていた。
そんな三人の間に流れる微妙な空気を察しているのかいないのか、緑間が口を開く。
「はこんな時間まで何をしてたんだ」
「教室で勉強してたらさ、いつのまにか寝てたんだよね。教室施錠する先生に、下校時刻だぞって起こされた」
ふああ。は口を押えてあくびを隠す。できるだけたくさん酸素を吸いこんで、未だにぼうっとする頭を早いとこ起こさなければならない。
「起きたら教室すっごく寒くて。凍死しなくてよかった」
「お前は本気で教室で凍死すると思っているのか」
「いやそこはツッコもうよ。ボケをボケで返さないでってば困るから」
が呆れた表情で緑間を見上げた。
「それにしても、試験期間でもないのに勉強とは感心だな」
「成績落とさないっていうのがバンドやる条件だからね。手は抜けないっていうか」
「うちのやつらに見習わせたいのだよ……」
「なんでこっち見んの。オレそこまで悪くねーし。問題なのは峰ちんと黄瀬ちんでしょ」
もぐもぐと口を動かしながら紫原が答える。には峰ちんが誰なのかは分からなかったが、もう一人は分かる。
「黄瀬くんって頭はイマイチなの?」
「青峰に比べればマシだがな。それでも毎回いくつか追試に引っかかる」
「そうなんだ。てっきり勉強もできると思ってた。神様、黄瀬贔屓も大概にしろよぐらいに思ってた」
「お前の中の黄瀬評価はどれだけ低いんだ。さすがに黄瀬に同情する」
「いやでも出来が悪いところあるって分かってちょっと上がったよ。かわいいとこあるんだなあって」
黙って二人の会話を聞いていた紫原は、同じ学校の女子らしくないの発言に眉を寄せた。
校内の、女子による黄瀬の評価は群を抜いているといっていい。紫原の持つ紙袋にあるカップケーキの量だってその証拠だ。
どこにいても「黄瀬くんかっこいい」「だよねー!」なんて会話が溢れていて、もはやウザったいなどと考えるのも馬鹿らしい。
でも、話の流れからどうやらこの女は違うらしい。
「アンタ黄瀬ちん嫌いなの?」
紫原がの顔を覗き込むと、はその迫力に思わず足を止めた。
「あれ、なんか怖がらせた?」という紫原に、「規格外にデカいからな」と緑間が応じる。
「で、アンタは黄瀬ちん嫌いなのって話」
「嫌いじゃないけど、好きにはなれないなと思ってるよ」
「それ嫌いってことじゃねーの?」
「嫌いっていうのはさ、顔も見たくないレベルっていうか。実際私はそこまで黄瀬くんのこと知らないし。ただ、一緒に日直やったり、クラスでの黄瀬くんを見てたりする中で、極力この人と関わりたくないなって思う」
「ふうん。珍しいね。この学校の女子はみんな黄瀬ちんが好きだと思ってた」
「そんな風潮だから、普段は言わないよ」
時々、緑間に愚痴るぐらい。とは笑った。さっぱりとした物言いと、含みのない笑み。紫原は、黄瀬黄瀬と騒ぐクラスの女子を思い浮かべて、こっちのほうが好きだと思った。
「でさ、ミドチンと付き合ってんの?」
「え?付き合ってないけど。何で?」
「付き合ってたらオレ気まずいじゃん。ここにいていいかな、と思って聞いただけ」
紫原は、口元を指で拭う。指についた食べかすをぺろりと舐めた。
「それにしても、君よく食べるね」
「君じゃなくて紫原敦って名前なんだけどオレ」
「通じてるんだからいいじゃない紫原くん」
「だめ、ミドチン呼ぶみたいに呼び捨てして」
「呼び捨てって言われても、、、初めましての人を呼び捨てる勇気がないよ紫くん」
「紫くん?」
「呼び捨てはできないけど紫原くんは長くて言いにくいから、紫くん」
「まーいいやなんでも」
なんとなく黄瀬と同じ君付けが嫌だっただけで。君付けには違いないが、我儘を聞いてもらった上での君付けだ。黄瀬とは違う。
紫原は小さな優越感を感じならが、カップケーキをかじる。もう三つ目だ。
「あ、緑間ずるい。私も温かいもの飲みたい」
いつのまにか、二人の間にいたはずの緑間は青白い光を灯している自販機にコインを突っ込んでいる。ガコン、と音を立てて、自販機は温かい缶を吐き出した。緑間の手に握られている缶には「おしるこ」の四文字。
「おしるこ好きなの?」
「ああ」
「私も好きだけどさ、最後まできれいに飲めないとこがイラっとするからあんまり買ったことない」
「練習すればきれいに飲めるようになるのだよ」
「ほんと?じゃ買ってみよっかな」
はバッグから財布を取り出すと、ファスナーを開けて小銭入れを覗く。
「あ、小銭百円しかないや。これ五千円札は入らないよね?」
「札は千円だけだな」
「がーん。コンビニまで我慢かぁ」
落胆した様子で財布をしまおうとするに、緑間が、「ん、」と握った拳を差し出す。
が「何?」と手を出すと、緑間の拳が開いて、十円玉が二つ、手のひらの上に落ちた。
「身体が冷えているのだろう。とりあえず貸してやるから、何か買え」
「え、あ、ありがとう。助かります」
思わず敬語になるに、緑間は「たいしたことないのだよ」と言い返す。
は「明日返すね」と言って小銭を入れると、緑間と同じおしるこのボタンを押した。
(なにこれ)
あまりに自然な二人のやりとりに、紫原は思わず落としそうになったカップケーキを慌てて持ち直す。それぐらい衝撃的なワンシーンだった。目の前にいるのは本当に緑間かと確認してしまう程度に。
大体、緑間は人に物を貸さない。「貸して」と言うと、「いつでも使えるように人事を尽くしているからだめだ」と返ってくるのがデフォだ。今日だってこのあと二十円が必要になるかもしれないのに、には惜しみなく差し出すとは。
「どしたの紫くん。行くよ」
固まっている紫原を、少し先でが呼ぶ。紫原は複雑な表情で、二人を追いかける。
「ねー、ほんとに付き合ってないわけ?」
「え?さっきそう言ったじゃない。付き合ってないって」
何で二回も聞くの?とは不思議そうな表情を浮かべている。その横に立つ緑間は相変わらずの無表情で。
それでも、二人の手の中にはしっかりとおしるこの缶が握られている。
(これは、多分、牽制だ)
見せつけられている。紫原は、じろりと緑間を見下ろすが、その腹の中は読めない。
「なんか、胃のあたりがむかむかする」
「食べすぎじゃない?」
「食べ過ぎなのだよ」
と緑間の即答に、紫原は面白くなくて奥歯を噛みしめた。
(オレ負けず嫌いだから、そんなことされると余計に興味が湧くってこと、分かってるよね?)