「…吐きそう」
船酔いで青ざめた表情のが言った。
は江戸に退却する新撰組とともに富士山艦へ乗り込んでいた。
船に乗り込んで早四日目。どうやら明日には着くらしい。
鳥羽伏見の戦いでは薩長軍に惨敗し、新撰組を含む幕府軍は多くの犠牲者を出した。
洋装をし、刀槍ではなく銃器を持って戦う薩長軍。
彼らの持っている武器は幕府側にある銃器などとは比べものにならない威力を持ち、
見事というぐらいに幕府軍を蹴散らした。
惨敗、という以外に言いようが無い。
この戦いでは局長らと長い付き合いだった井上も命を落とした。
そして昨日、監察として土方のもとで働いてきた山崎も。
はぐらぐらした頭を抱え、甲板へ出た。
潮の香りを含む風を受けると少し気分が楽になったような気もする。
一度船に乗ってみたいと思っていたけれど、実際に乗ってみるとこれ程嫌なものは無かった。
波のせいでぐわんぐわん大きく揺れるし、真っ直ぐ立てているのかも分からなくなる。
普段の感覚が分からない。
四日目ともなるとどの隊士たちも限界らしく口数が減った。
最初こそ「気持ち悪い」「ぐらぐらする」「もう嫌だ」と喚いていたも、流石に何も言う気にはならなかった。
ただ早く着くことを祈って、今も船の揺れに耐えている。
「何してんだ」
その声に振り返ると、背後には土方が立っていた。
は全然気付かなかった、というような表情を浮かべる。
「気分転換しようと思って…」
「大丈夫かよ。顔青いぜ」
「大丈夫じゃないけど大丈夫だと思う」
「なんだそりゃ」
土方は静かに歩を進め、の横に立つ。
怪我はないものの流石の土方にも疲れの色が見え始めていた。
「船は嫌ですね」
「ああ」
「早く江戸に着かないかなぁ」
ふいに黙った土方を、はどうかしたのかと見た。
土方は視線を海へ向けたまま何も言わない。
考えているのか、言葉を選んでいるのか。
土方が何を思っているのか予想もつかないは、土方と同じように広く続く海を見た。
ただ青く、ただ深く、波を立てている海。
その波にゆらゆらと揺れる船から、海を見下ろす土方と。
「江戸に着いたら、」
土方はすぅっと息を吸い込んで、言った。
「お前は総司と行け」
隣から聞こえた声には目を見開いた。
確かに土方の口から出た言葉であったが、には理解することが出来なかった。
うそだ。急になにをいうの。おかしいな、私の頭、相当やられてるみたい。
顔を上げないに土方はもう一度言う。先ほどよりも大きく、はっきりと。
「お前は総司と行け」
「…どうして…」
の口から出たのはこれだけだった。
潤んだ瞳に、泳ぐ視線に、不自然につりあがる口元。
こんな冗談笑えないよ、土方さん。
ねえ土方さん、何か言ってよ。
「これ以上お前を連れて行く気はねぇ」
「…そんなの、嫌です…」
「嫌でも何でも関係ねぇよ。連れて行かない。それだけだ」
「勝手に決めないで下さい!私は土方さんについて―」
土方さんについていく。
が全てを言い終える前に、土方が口を開いた。
まるで、その言葉を遮るように。聞かないようにでもするように。
「総司の奴は、もう長くねぇ」
土方からこぼれた言葉には肩をかすかに震わせた。初めて聞く、弱音。
の脳裏に総司の顔が浮かぶ。
この船に乗ってからますます衰弱していく総司の弱々しい微笑み。
土方は隣にいるを抱き寄せ、耳元で呟いた。
「お前に見届けてもらいてえんだ。俺の大事な弟の最期を」
俺はあいつを独りで死なせたくない。だからお前に託したいんだ。
そう言った土方の声がどこか震えているようで、は針で指を刺したような痛みを感じた。
それはきっと総司が土方にとってどれだけ大きな存在であるのかを知っているから。
「…そんなの、土方さんがついててあげればいいじゃないですか」
それでも、出てしまう言葉。無駄だと分かりきっているけれどのできる小さな抵抗。
行かないで。ここにいて。私を置いて遠くに行ってしまわないで。
「俺はここで戦いをやめるわけにはいかねぇよ。俺のために死んだ奴らのためにも」
まるで自分自身に言い聞かせるように言った言葉に、は顔を土方の胸に押し付けて泣いた。
甲板には響くはずのの慟哭は、海風が何気ない顔でかき消していく。
もう何が悲しくて泣いているのかすらには分からなかった。
分かりたくも、ない。
嗚咽を堪え鼻をずずっとすすりながら、涙声で土方に言う。
「…私、土方さん、が死んだ、ときは、追い、かける、よ」
「馬鹿か、って、怒られたって、追い、かける」
「だか、ら、死なないで…!」
途切れ途切れになりながらが必死に紡いだ言葉。
土方はすまねぇ、とだけ言い、をかつてないぐらい強い力で抱きしめた。
そして見たこともない優しい顔で、甘い声で言った。
「…いつか、全部終わったら嫁に来い」
2004.06.13(2010.03.31改訂)