と出会ってから、RENのCDばかり聴いている。RENは親父の一番好きなピアニストだった。今でも親父の書斎にはすべてのCDがきちんと並べられている。
03;苦手意識 (跡部)
「お坊ちゃま、お待たせいたしました」
使用人が開けたドアから、黒塗りのベンツに乗り込む。午後5時を過ぎ、太陽が西に傾きはじめ、暑さもおさまってきていた。今日は午前練習だけだったので、午後は行きつけのジムで久しぶりに汗を流した。ここのところ、部長の引継ぎやら練習試合で忙しかった。俺はそんなことを思い出しながら、シートに体重をかけ目を閉じる。車の微妙な振動が心地よかった。
「お疲れのようですね。折角部活がお休みなら家で休まれたらよかったのに」
「いや、身体が鈍る」
「昨日旦那様が『景吾は少し痩せたんじゃないか』と仰っていましたよ」
そういえば昨日帰国したんだったか、と思い出した。親父は1年の半分以上を海外で過ごしている。小学生の頃母親を病気で亡くした俺は、だだっ広い家で使用人と生活している。特に寂しいと思ったことはない。まめな親父は誕生日やらクリスマスやら行事のたびにカードを送ってくるし、忙しいテニス中心の毎日にはそんなことを考える暇もない。好き勝手できる生活を気に入ってもいた。
けれど、母親と過ごす時間が短かったためか、俺は女と接するのが苦手だ。言い寄ってくる女はいい。何か言われりゃ適当に返事でもしておけばすむ。苦手なのは何も言わないのような女だ。がマネージャーになって二週間以上経つが、俺はまだと話をしたことがなかった。別に嫌っているわけではないが、何を言えばいいのかわからない。馴染んでいるとは言えないけれど、は少しずつ部に慣れてきているようだ。何故か分からないが、は向日と仲良くしている。仲良くしているというには語弊があるかもしれないが、が部員の中で一番話したりしているのは向日だ。向日も向日でを気に入って「!!」と声を掛けている。多分、部の中でと話していないのは俺ぐらいだ。
「あー事故でしょうか、渋滞です」
使用人の声に、ふと我に返る。気づけば渋滞で、車はちっとも進まなくなっていた。
不意に交差点の角の喫茶店に目をやると、店の中には見たことのある顔の――がいた。
「先に帰っていてくれ」
俺はそう言い、ドアを開けて車を降りた。引きとめようとする使用人の声をドアをバタンと閉めて遮る。困惑気味の使用人には目もくれず、俺の足は横断歩道を渡っていた。自分でもどうして車を降りたのか分からなかった。今思えば、何かに吸い寄せられたのかもしれない。
喫茶店の扉を開けると、カラコロンと鐘の音がした。小さな店で、客もまばらだった。カウンターに、アンティーク調のテーブルが3つ。天井には空調を整えるための大きなプロペラが回り、だいだい色の照明がぶらさがっていた。
そして、通りに面した窓のそばにあるテーブルに、を見つける。は何をするともなく、ただぼーっとしているようだった。
「よぅ」
俺の声に、が「あ、」と顔を上げる。俺は構わずの向かいに座った。「コーヒー。あと彼女に紅茶のおかわりを」
ウェイターがコーヒーと紅茶を運んできた。いいの?、という表情を浮かべているを尻目に、俺は砂糖もクリームも入れないままのコーヒーに口をつけた。値段のわりに味は悪くなかった。
「どうしてここに?」
「ジムの帰りに通りかかったところ、見つけた」
「見つけたから、来たの?」
「…ああ」
ふぅん、とは手元の白いティーカップに目をやり、テーブルの真ん中に置かれている小さなかごに無造作に積まれたミルクを掴んで紅茶に垂らした。茶色い紅茶の表面にミルクのすじの渦が巻く。
どうしてここに来たのか自分でも分からず、の問いに一瞬どきっとしたが、自分の返事には特に気に留めた様子もない。てきとうに会話のネタを探してふと思いついたようなことのようだった。
「は人と待ち合わせでもしてるのか」
「そう。早く着きすぎたからここで時間をつぶしてるの。まだあと1時間もある」
今度は俺がふぅん、という番だった。
そんな続いてるのかどうかよく分からない会話を30分ぐらいして、俺は店を出た。待ち合わせ相手が早めに来て顔を合わせることになるのはなんとなく失礼な気がしたからだ。会話の内容は、部活には慣れたかだとか、氷帝に入学したのはいつだといった取り留めのないことばかりだった。ジムでの疲れがきたのか俺も多くを話す気にはなれず、30分の半分以上は沈黙だったように思う。RENのことにも、自身のことにも触れなかった。それでも、別に居心地は悪くなかった。身体にのしかかっていた苦手意識という塊が溶解しているかのようだった。
結局、渋滞は未だ解消されていなかった。今から車を呼ぶよりも、おそらく歩いて帰ったほうが早い。
日も暮れかけ、帰宅する人間でざわつく街を、俺はひとり歩き出した。空は濃い赤やオレンジ、紫や灰色が混じったような色だった。
「待たせてすまない」
「私が勝手に早く来ただけ。国光が謝る必要はないでしょう」
細くとも其れは確かな繋がり