しゅわしゅわ弾ける泡よ、俺たちを包んでもう一度あの日々に届けてくれ。
夏の熱気の下で、必死だったあの日々に。




06;ホワイトサワー (宍戸)




「集合」
跡部の一声で、コート一面に散らばる部員がさっと集まる。部員は監督を前に軍隊のようにかっちりと整列した。夏休みの一日練習を締めくくるこの整列の時間に流れる、湿度を含んだ生暖かい空気は肌に纏わりついてくるようで好きじゃない。
これまた軍隊みたいに全員が腰を折って頭を下げ、気力を振り絞って言う「ありがとうございました」は、練習終了の合図。一年は片付けのためにコートに戻っていく。


「はー、今日も暑かったな、侑士」
「まだ夏やからな」
部室に戻るとすでに向日と忍足が制服に着替えていた。奥からはシャワーの音がする。今日は滝がいないから、跡部か。大体シャワールームを使うのは跡部と滝ぐらいなものだ。

「宍戸は着替えないんか?」
「ああ、ちょっとな」
もう少し残って練習するとは言いにくい、というか言いたくなかったからテキトーに誤魔化すつもりだったが、向日のヤツがこっちを見てにやにやした。
「今日、俺らに負けて悔しいから居残り練習するんだろ」
「うっせーな」
向日に向かって一睨みすると、向日は「こわっ」と呟いて白いカッターシャツを羽織った。それを見て、なんとなく部活後に羽織るシャツの冷たさを想像した。暗いロッカーの中で数時間冷やされたシャツの纏う空気。背筋が震えるようだ。


部室のドアがひらき、鳳が顔を出した。

「あ、すいません。日誌を置きにきました」
鳳の手には確かに日誌が抱えられていた。いつもはが管理しているものだ。
「なんでお前が日誌?」
先輩、今日は補習最終日で、試験なんだそうです。だから今日は夕方まで顔出せないからって僕が頼まれたんですよ」
「ふうん」

。あいつが現れてひと月が経った。
向日やジローあたりは気に入ってるのか、いつも構っているのを見かける。
跡部とは事務的な会話が多い。跡部も跡部なりに気を使っているようで、部活中もたまにのほうを見て声を掛けたりしている。
忍足は、やたら一方的に話しかけてる感は否めないが、最近ヤツはのことを「」と呼ぶようになった。(それを聞いた向日が「お前と大して仲良くないくせに馴れ馴れしいんだよ」とか言って口喧嘩してたな。)
滝はたまにマネージャーの仕事のアドバイスをしたりしているぐらいで、それ以上の接触はあまり見ないが、まあ、後輩には慕われているようだ。鳳もその中の一人で、いつも「どうやったらもっと仲良くなれますかねぇ」とか言ってやがる。
ちなみに俺はまだと会話といえる会話を交わしたことがない。

同じ場所にいても、から俺たちの輪に加わってくることはない。もちろん、こちらから誘えば加わることもできるが。ひと月経った結果は、向日が俺たちとのパイプになっていて、繋がっているように見えるだけ。

結局、俺たちはのことを何にも知らないのだ。言い換えれば、表面的な関係でしかないということ。間には溝があって、お互いに(かどうかは微妙だが)どこまで踏み込んでもいいのかを恐れているのだと思う。RENの事故やピアノの話は暗黙の了解的にタブーで、だれも話に出さないことからも分かる。下手に踏み込んで、溝がもし谷だったら――危険を顧みずに踏み込めるほど俺たちは優しくない。

ぬるま湯に浸かってるみたいな関係だ。熱くもなく、冷たくもない。中途半端。こういうのは、正直好きじゃない。


「宍戸さん、練習付き合いましょうか?」
「いや、いい。一人でやる」
折角なら付き合ってもらえばええやん、という忍足の声を振り切って、部室を出た。ちょうど傾いた太陽が眼に飛び込んできた。燃えるオレンジが眩しい。

コートに行くと、片付け中の1年がコートで球を打ち合っていた。当たり前の光景。人数の多いテニス部の1年が、部活中にコートを使える時間は短く、満足のいく練習をすることは難しい。1年はこうやって朝とか夜とかの空いた時間で練習するしかなく、俺もそうやって練習してきた。ここは氷帝。1年でも何でも勝てばレギュラーの世界。勝ちあがれるかどうかは自主練にかかっている。
コートを空けさせることは簡単だが、練習でも散々使っているだけに気が咎められる。だいたい1時間たてば空くことだと思い、「ボール一籠だけ残しといてくれ」と近くにいた1年に声を掛けてランニングに出た。



ランニングから戻ってくると、予想通りコートにはボールの入った籠だけがポツンと残されていた。人影はない。さっきまでは眩しく光っていた太陽も沈みかけ、あたりは薄暗い。俺が1年の頃は、いつも真っ暗になるまでやってたな、と思い出してみた。自分は誰よりもレギュラーを切望していたと思うし、そのための努力も惜しまなかった。今だってこう一人で残っているのも、レギュラーという枠から外れるのが怖いから。レギュラーのプレッシャーは半端なくでかい。










、短い時間でここまでよく頑張ったな。これだけできていれば、新学期からも不安なく授業についてこれるだろう」
「ありがとうございました、榊先生のおかげです」
「どうだ、一人暮らしは。やっていけそうか」
「なんとかって感じです。昨日から新学期始まるまでは弟も居てくれるので…」
「無理するなよ。困ったことがあったら言いなさい」
「はい」

試験を無事クリアーし、毎日の補講も今日で終わりだ。嬉しいというよりも、安堵。背負っていた緊張をやっと解くことができることに安心した。

送ろうか、という太郎さんの言葉を丁寧に断って、失礼しました、と職員室を出る。頼っていいと言われても、これ以上甘えてはいけないという自制心が無意識のうちに働いてしまう。多分、私は自立したいのだ。散々周りに甘えきってきたこの8ヶ月を取り戻したいのに、結局どうすればいいのか分からずにもどかしい。私の一人暮らしが、太郎さんに更なる心配を掛けていると思うと、ぐったりしてしまう。
職員室を出ると、廊下教室一面が闇に包まれていた。黒い空気の中を足元に気をつけながら電気のついてる教室を目指す。学校が静かであることは怖い。誰かが息を潜めているようで、息苦しさを感じてしまう。先に、ぽうっとした光を見つけると、そこへ小走りで急いだ。

教室には私の鞄だけが残されていた。広く黒板に書かれた関数の解説。黒板消しを手に取り、丁寧に消す。静かな教室に、きゅっきゅっと黒板消しが黒板とこすれ合う音が響いた。
ところが、耳を澄ますと、ぽん、ぽん、という音が聞こえる。ふと、テニスコートに眼をやると、暗くて誰かは分からなかったが、誰かがボールを打っているのが見えた。










「こんなに遅くまで残ってるの」

聞き慣れない、だが少し低めでやわらかいどこか心地よい声に振り返ると、フェンスの向こうにが立っていた。相変わらずの色白で、暗闇の中で顔と手足だけが浮かび上がってるようだ。今頃帰るところなのだろうか、もうテニス部の連中さえ残っていないような時間なのに。


「なんだよ、今帰りか」
「そう。入ってもいいかしら」

そういうとは俺の返事も待たず、フェンスの戸をあけてコートに入ってきた。そして、俺に向かって一本の缶ジュースを差し出す。白地に青い水玉。なんともレトロでシンプルなデザイン。復刻堂ホワイトサワー。の手には同じものがもう一本握られていて、どうやら俺にくれるらしい。

「差し入れ」


俺はとりあえず練習の手を止め、とフェンス沿いに並べられているベンチに座った。アルミボトルのふたに力を入れてまわすと、プシュとはでるような音と共に、甘い匂いが吹いた。口に含むと、炭酸が喉をチクチクと刺激してきた。しゅわしゅわと泡が弾ける。


「補講、こんな時間までかかったのかよ」
「今日はちょっとぼーっとしてたから。引越しとか色々あって疲れちゃってて」
「引越し?」
「引越しというか、今までは太郎さん、あ、榊先生の家に置いてもらってたんだけど、一昨日から自宅に戻って一人暮らしを始めたの」
「一人暮らしかよ?すげぇな」
「うち、両親なくしてるから」
「……わりぃ、」

無神経だった、と思った。の両親のことは、聞いていたのに。は表情を変えなかったが、視線はぼーっと宙を彷徨ってる。の手に抱かれたホワイトサワーの缶は、ふたを開けられるわけでもなく、静かだった。大気の熱にやられて、表面に水滴がびっしりついている。中では泡がしゅわしゅわと潜伏しているのだろう。



「新学期からも、マネージャー続けるのか」
「試合前とかの忙しい時だけで、って先生には伝えたわ」
「じゃあ、ピアノか」
「………ピアノは、」

少し直球すぎたみたいで、はそんなことを言われるとは全く思っていなかった、というような顔をした。困った、と顔に書いてある。眉間に皺をよせ、目尻がぴくぴくと動いている。
こんなこと、俺が言う必要もないし、義理もない。ただ、もし、が今後も俺たちと関わっていくのならば、表面しか見ない生ぬるい関係を続けていくのはきつい。打開するためなら、俺にはタブーも何も関係ない。はっきり言ってやる。はRENの事故の被害者だ。けど、その被害者ってところに甘えてねぇ?


俺はホワイトサワーを飲み干して、立ち上がった。足元に置いたラケットを握る。
「お前は、じゃあ何で認めてもらうんだ」

背中にの視線を感じた。表情は想像できない。

「俺は、テニスで人に認めさせる。これが俺の存在意義だって胸を張りたい。そのためにならいくらでも努力するし、残って練習したって構わない。俺だけじゃない、このテニス部にいるやつら全員はそのつもりでテニスをしている。跡部だってそうだ、才能だけでうまいわけじゃない。
お前は、何で胸を張る?親が事故あったのは結果論で、ピアノのせいじゃねぇ。そんなこと、分かってるだろ」

俺が振り向くと、は顔を上げた。眼が合う。

「弾け。お前は事故に逃げてるだけだ。逃げるのをやめて向き合え。納得できるまで努力してみろ。胸を張って誇れるまで、弾け。お前の存在は、ピアノで認めさせろ。俺はお前の才能だとか何も知らねぇけど、いつまでも逃げていて感覚を鈍らせるのはやめたほうがいいぜ」


言って後悔はない。はもう俺のことを見ていなかった。無表情に、手に持っていたホワイトサワーの缶から水滴がポタポタ落ちて地面に円を描くのを見ていた。

俺のことばがどう転ぶかは分からない。いい方に転べばいいが、余計事態をこじらせた感もなくはない。


「帰ろうぜ。5分で片付けるから待ってろ」



泡よ、消えてくれるな