分かっている。自分が逃げていることぐらい。私は視角にも聴覚にも指の運動性にも、何の障害もない。弾けないのではなく、弾かないでいるだけ。




07;透明な瞳 (




「ジローのやつがいねぇ。、見てきてくれ」

今日は朝からコートで校内ランキング戦が行われていた。部員たちはいつも以上に気合が入っているようで、緊張を滲ませている。3年生の引退以来初のランキング戦であるため、実質的に新人戦のレギュラー争奪戦とも言える。以前からレギュラーだった跡部忍足は確定として、残った枠を巡って部員に力が入るのも当然というところだろう。

夏休みを締めくくるとも言えるランキング戦。部員が200人もいるとランキング戦に数日かかり、レギュラーが決定する頃には新学期だ。
まずは少人数のリーグ戦を行い、各リーグの上位者でトーナメントを行ってレギュラーを決定する。試合結果は、勝者が部長に報告することになっているので、跡部はスコアの整理に追われていた。そこへ、部員から「芥川がいなくて試合が始められない」という苦情が寄せられ、私に捜索が回ってきたところだ。(樺地君は試合中)


何度か捜索をしていて、気づいたことがある。それは彼が、コートの音や声の聞こえる範囲にいるという事。本当に一人で眠りたいのならば、捜索の手の届きにくい所へ行ってしまえばいい。(むしろそんなに眠たいならば帰ったらいい、と思う)でも彼は、そんなことしない。見つけ出されると知っていながらも、音と声の聞こえる範囲で眠るのだ。

大抵、芥川君はテニスコートから部室までのどこかで見つかる。木陰にいたり、部室のソファーの上だったり。今日も、その辺にいると思った――が、そんな予想ははずれて見当たらない。帰ったらいいとか思ったから?まさかそんなこと…とあたりを見回す。と、ふと校舎棟の窓に眼が留まった。

部室の前にある校舎棟の2階の角にある音楽室の窓から、彼の柔らかそうな金髪が見えた。窓枠に、組んだ両腕をのせ、頭を伏せている。まあ確かに、あそこでも部活の音が聞こえるだろうし、テニスコートを眺めることもできるけど、あんな窓の前で寝たら日に焼けそうだ。そもそも、あんな体勢で苦しくないのだろうか。とりあえず、連れてくるよう言われている以上、起こしに行かないわけにはいかない。


直射日光のあたる外にいたからだろうが、校舎の中がとてもひんやりしているように感じた。冷たい空気に、汗ばんだ肌が急速に冷やされる。毛穴が締まり、鳥肌がたった。




がらり、と音楽室の扉を開けた。窓枠に伏した彼は、動かない。

そっと近づいてみると、すーすーと寝息が聞こえた。彼は立ったまま窓枠に腕をのせ、眠っている。よくもまあこんな体勢で眠れるものだと一種の尊敬の念を抱いた。起こすのも勿体無いぐらい、幸せそうな寝顔だ。

窓の外を覗くと、ちょうど宍戸君と侑士が試合をしているのが見えた。二人ともボールを追いかけ、全力でコート中を走り回っている。ボールが跳ねる音、地面を蹴る音、ラケットを振りぬく音、息を吐く音までが聞こえてくるようだ。筋肉の収縮と弛緩、したたる汗、ひとつひとつが芸術だった。



「お前は、じゃあ何で認めてもらうんだ」

「俺は、テニスで人に認めさせる。これが俺の存在意義だって胸を張りたい。そのためにならいくらでも努力するし、残って練習したって構わない」

「お前は、何で胸を張る?」



痛いぐらい鮮明に浮かび上がる声。数日経っても耳から離れてくれない。


私は何で認めてもらうのだろう――そんなの私が聞きたいぐらいだ。
それよりも、私は何でピアノを弾いていたのだろう。何で弾けなくなってしまったのだろう。

生まれた時からピアノがそばにあった。父の紡ぎ出す無限の音が、目の前に広がって世界をつくる。まるできらきらと星が降ってくるようだった。子どもながらにわくわくして、どきどきした。私も星を生み出したくなって、ピアノの前に座ったのは何歳だったか。

そうか、私は音という星を降らせたくて、ピアノを弾いていたのだった。幾千の星を降らせる父みたいになりたかった。父は、私の中でピアノの神様だった。

目を瞑れば、父の音が甦る。思い出す音さえも輝きを失わない。さすが神様の音だ。あまりの眩しさに、目頭が熱くなって、瞳が潤む。極限まで膨らんだ涙の粒が、重力にひっぱられ、頬を伝って床に落ちた。



(試合を見てただけなのに、なんでこんなに感傷的になってるの)

窓の外では、相変わらず黄色い小さなボールが行き交っていた。茹りそうな暑さにうんざりする。そろそろ戻ろう、と涙を手の甲で拭い、眠る彼の肩を揺すった。

「ん、」
身をよじらせ、芥川君が目を開けた。なんて透きとおって、きれいな瞳。


「おはよう、
「おはようっていう時間でもないけど」
「ちがうよ、目が覚めたときが、おはようなんだ」

まんまるで透きとおった瞳が細められた。芥川君は口角をきゅっとあげて、可愛く笑う。よく寝た、と目をこする姿も様になっている。
立ち上がって伸びをすると、背中の骨が鳴る音が聞こえた。あんな体勢で寝るからだよ。


「どうして、コートの近くで眠るの?」

私は気になっていたことを聞いてみる。眠たいのならば、見つからないところまで行ってしまえばいいのに、と。
なぜか芥川君は、目を少し大きく開いて、「やったぁ…」とガッツポーズをした。

が俺に質問したの、初めてだよ!」
「…そう?」
「そう!俺数えてたもん!」
「…そうなんだ」
「やったぁ。進歩だ。忍足に自慢しよう」

「ね、ジローって呼んで!」と言うから、「ジロー」と繰り返すと、芥川君は全身で喜んだ。自分までなんだか嬉しくなってきて、笑った。(話をはぐらかされた気もするけど)
すると芥川君は、「よかった、もう涙止まったみたいだ」なんていうから、びっくりした。寝たふりでしたか?


が何を悩んでるのか知らないけど、悩みは解決しなきゃ。俺、できることがあったら手伝うからさ」


例えば、ピアノを聴いて欲しいとか。芥川君はそういうと、私の手を取った。

「きれーな指。ピアノの神様に、愛されてる証拠だよ」



呼吸が止まりそうになった。芥川君の言葉に、柔らかな表情に、透明な瞳に。
さっきまでの感傷的な気分が一瞬にしてよみがえって、苦しい。勝手に言葉が口をついて出た。


「…愛されているはずない。だって私はピアノの神様を殺してしまったんだものっ――」

勝手なこと言わないで、という言葉は、途中で遮られてしまった。私は抱き寄せられて、芥川君の胸の中にいる。



は愛されてるよ。俺が保障する。は怖がってるだけだよ」




(そうか、怖いんだ。神様から見放されたと気づくことが)


2009.3.28 書き直し