まるで、初めてピアノに触った子どものような感触。音が身体中を振動させ、脳に響く。このときの感覚を、私は一生忘れない。




09;解放と踊る (




半年以上ぶりに弾いても、呆気ないぐらい簡単に音が鳴った。何を怖がってたのだろうと思わせるぐらい簡単だった。
でも全然指が回らなくて、ミスタッチの嵐。リサイタルなんて到底呼べない。太郎さんは見透かしていたように笑い、「さあ、どれぐらいかかるかな」なんて言った。

それからは毎日、時間を惜しむようにピアノの前に座った。空白を埋めるように、貪るように白と黒の鍵盤を叩く。



「最近、機嫌がいいみたいだな」

3時限目の現国は、先生の不在で自習だ。本を探しに図書館へ行くクラスメイトの波に乗り、図書館で目についた本をぺらぺらと捲っていたときだった。

聞き覚えのある声に振り向くと、いつの間にか隣に跡部君がいた。彼の手には、古そうで分厚い本が握られている。(表紙は外国語で書かれていて、なんて書いてあるのか分からない)
私は手を止めた。

「そう見える?」
「ああ」
「すごいね。気のせいじゃないよ、多分」
「褒められてんのか、それは」

分かんない、と笑う。すると、跡部は眉間をぴくっと動かして「それだ」と言った。
「お前、この前まではそんなふうに笑わなかっただろ」

跡部君のことばを聞いて、私にとっていかにピアノが欠かせない存在だったのかということを実感した。普通にしてたつもりでも、他人から見れば表情や態度に克明に現れていたのかもしれない。
ここ半年の自分はどんなだったんだ、と思いながらも、まだうまく弾けないピアノのことをいうのが何となく恥ずかしくて、曖昧に笑った。

跡部君はジッと私の顔を見て、「ま、暗い顔してるよりはマシだな」と目元を緩ませた。美しいロイヤルブルーの瞳。

(?なんか見覚えあるような)
一瞬浮かんだ疑問も、跡部の「昼休み、屋上に来いよ。あいつらが一緒に飯食おうってさ」という一言にかき消されてしまった。




***




、おせーよ!」

購買でサンドイッチとカフェオレを買い(想像以上に混んでいた)、屋上に行くとそこには見慣れた人たちが集まってお弁当を広げていた。岳人がこっちこっち、と自分の隣を指している。

屋上は開放的で、空が一段と近く見えた。9月も後半になれば、かなり陽ざしも穏やかになっている。

岳人に、侑士に、ジローに、跡部君に、宍戸君がいた。
ジローが「よっ」と片手を上げたから、「おはよう」と同じように手を上げる。見渡して、「滝君がいないね」と言うと、「委員会の仕事だって」と岳人が返した。
そのやりとりを見てか、侑士が目をぱちぱちさせる。

「なんや、、ちーとばかし見ない間に雰囲気変わったんちゃう」

するどいな、と思いながら、「それ、さっき跡部君にも言われた」と言いサンドイッチの封を開けた。ハムとチーズがはさまれていて、購買なのにこんなにお洒落なんて、と感心する。

「なんかこう…やわらかくなったなァ。そのほうが女の子らしくてええねんけど」

私こそこういう顔で笑う侑士のほうがいい。海に行った時にも見た、作ってない顔。私がどんなふうに映ってたのかは分からないけど、お互い様だと思ってしまった。

ふと視線を感じて顔を上げると、宍戸君と目が合う。何か言いたいことがありそうな感じだ。じっと見つめ返すと、宍戸君は私のカフェオレの紙パックの横に、プリンを置いた。
蓋の「リッチなコクと、滑らかな口あたり 生キャラメルプリン」という文字を読み上げてみる。宍戸君以外、意味が分からないという表情だ。

「…やる」

この前の礼と詫びだ、と付け加えられ、やっと納得した。ホワイトサワーの礼ときつい事言った詫びということだろう。

でも、実際今ピアノを再開できたのはおそらく宍戸君の言葉のお陰であって、詫びられるよりもむしろ私が感謝すべきな気がする。
私がうーんと考えていた思考は、ジローの大きな声に妨げられた。

「あー!俺がくれって言ってもくれなかったくせに!」
「あ、いや、それは」
「ずるいずるい!」
「ちょっと待て、これはこの前がジュースを差し入れてくれた礼に買ったんだよ」
、なんで宍戸にだけ差し入れしてんの…!ずるいCー!」


矛先がいつの間にか私に向いていて、「だって遅くまで一人で練習してたから…」と言うと、「俺も遅くまで練習するから差し入れちょうだい!」と詰め寄られた。顔が近いよ。
そのジローのことばに跡部君が「お前、その言葉忘れんなよ。部活抜け出して寝てたら承知しねぇからな」とニヤリと笑っている。

宍戸くんにはいつかお礼を言おうと思いなおし、ありがたくプリンを受け取った。ジローがあの大きくてくりくりな目を潤ませてこっちを見つめるものだから、つい一口あげてしまった。


「あ、、週末空いてる?」
「?」
「今週の日曜、うちのコートで新人戦の決勝やるんだ。見に来いよ」

岳人の言葉に「新人戦?」と返すと、侑士が説明してくれた。3年が引退して新体制になった部の手合わせのような試合らしい。
「決勝は、どことどこが戦うの」というと、「、忙しい時だけのマネージャーでも、一応自分の部のことぐらい興味持ってや」と呆れられてしまった。

「決勝はうちと青学だぜ」

ミネラルウォーターのペットボトルの蓋を閉めながら跡部君が言った。

「青学、かぁ」

1ヶ月ほど前に再会した友人は、また部長になったと言っていた。
そういえば、ピアノを弾き始めたことをまだ報告していない。きっと随分心配をかけてしまっただろう。久しぶりに連絡をとってみようか。

「なんだ、知り合いでもいるのか」
「ん。弟もね、青学のテニス部にいるの」
「弟、青学なんや。なんで姉弟そろって同じとこ行かんの?」
「幼馴染と同じ学校がいいんだって。昔は青学の近くにある祖父母の家に住んでたから」
「ふーん」
「弟もいるならちょーどいいな。絶対来いよ、。約束だからな!」

まだ行くと言ってないのに、と思いながらも、きっと行くんだろうなと思い返して口にするのをやめた。懐かしい人に会えるかもしれないし、少したのしみだ。


「おい、

跡部君が、白い封筒を私に差し出した。見覚えのある、品のいい白い封筒。
中身は想像できたが、黙って受け取る。

「俺の誕生パーティーの招待状だ。受け取れ」

まわりは驚いて跡部君を見た。

「ちょっ、跡部が俺ら以外を誘うのなんて初めてじゃねーか?」
「俺もそう思うゼ」
「すごいやん、
「わーい、も来るなんて嬉しC−!」

騒いでいる人たちを尻目に、どんなプレゼントを持っていけばいいんだろうと考えていたら、跡部君が見透かしたように「つまらないもんはいらねぇぜ」と口角を上げた。





穏やかに、でも着実に、時間がすぎていく。永遠は、この空の青だけ。