を守る。あの日、白いベッドに眠る姉に誓ったんだ。
ナイト気取りと笑いたければ笑えばいい。
12;ひとつの守り方 ()
「、そろそろアップしておけ」
隣でじっと試合に見入っている国光くんの声に、そうだねと返事をして立ち上がった。「じゃあ僕が手伝うよ」と言ってくれた不二先輩と連れ立ってスタンドを離れ、邪魔にならなさそうな場所を見つけて軽く打ち合う。
今コートでは、青学のゴールデンペア対氷帝のゴールデンペア(帽子と長身のコンビだ)の試合が繰り広げられている。
1試合目のD2は、乾先輩と海堂が氷帝の眼鏡とおかっぱに負けていて、今のところ向こうが一歩リードというところだろうか。
一定のリズムで返球される球を一定のリズムで打ち返す。パコンという小気味のいい音に、手首に伝わる球をはじく振動。身体が少しずつ温まってくるのを感じる。
無心になれるテニスが好きだった。ごちゃごちゃと考える音楽より、ひたすら全身で球を追いかけるテニスのほうが疲れて楽しい。
テニスを始めたきっかけは、僕が小学2年生の時、お隣で幼馴染の国光くんがテニスを始めたことだ。自分もやりたいと散々我侭を言い、バイオリンもちゃんと練習すると約束した上で国光くんと同じテニススクールに通わせてもらえることになった。
小学4年になって、家族でフランスに引っ越してからもテニスをやめなかった。また国光くんとテニスがしたいと思っていたし、なにより自分の力で勝ちをもぎとることが面白かった。バイオリンで優勝してもその順位はあくまでも審査員が決めたものでしかなく、誰が見ても判断できる絶対的な勝ちではない。根本的に勝ちの種類が違うのだけれど、自分はテニスのような絶対的な勝ちがすきだった。
ただ、テニスのせいでバイオリンが、なんて言われないようにそりゃあもう必死に練習した。指に怪我をしないようにいつも細心の注意を払って、コンクール前はきっぱりと練習をやめたりした。
もともと自分は努力で身を立てるタイプだ。や国光くんのような才能を秘めた天才ではないけれど、誰よりも誠実に確実に努力する。そんな性格のおかげで、バイオリニストとしてもテニスプレイヤーとしてもちょっと名の知れた人になった。
フランスから帰国して、は父の母校であり音楽では名の知れた氷帝高等部に入学し、僕は家から近い都立中学に編入した。どうせ高校は国光くんのいる青学に行くつもりだったから、と一緒に氷帝に通えばよいという太郎さんの申し出を断った。日本でも相変わらずバイオリンとテニス三昧の毎日で充実していた。
その年の11月だった。両親が飛行機墜落事故で死んだのは。
急いでフランスに駆けつけるも、すべてを灼熱の炎が焼き尽くした事故現場から両親の遺体が見つかるわけもなく、唯一遺品として届けられたのは黒い耐熱トランクだった。持ち主を探すため中身を調べたところ、父の名前や数点の楽譜が見つかったためだ。その焦げたトランクは、両親が死んだという実感が全く湧かなかった僕たちに現実を容赦なく突きつけた。
そして、が壊れた。遅かれ早かれそうなるだろうという予感はあった。いくらに非がないと言おうとも、はひたすらに自分を責めて聞き入れない。コンサートの目的がのお披露目であった以上、がそう思い込むのも仕方がなかった。
どんな言葉をかけたって何の気休めにさえもならないことは明白で、いかに自分が無力であるのかを思い知った。僕は、枯れた声でなお叫び続ける姉の背中をさすることしかできなかった。
結局、泣いては眠り、起きてまた泣くという日々の繰り返しの末に、は病室の窓から飛び降りた。植え込みがクッションとなって、奇跡的に足の骨折だけで助かった。(霊とかそういう非現実的なものを信じるつもりはないけれど、の指や腕、肩がなんともなかったのは両親のおかげだろうな、と思う)
鎮静剤を注射されベッドに横たわるの顔を見つめながら誓った。僕が守ると。どんな現実からも、言葉からも、この世のすべてから自分の手で守ってみせる。
時間をかけて心の傷を癒すしかない、ということで、入院生活が続いた。少しずつ泣く時間が減って、少しずつ口を利けるようになって。回復するの横で、僕はひたすら受験勉強に励む。祖父母が、を青学に編入させることを決めたからだ。祖父母の家から氷帝に通うのは少し遠かったし、青学には幼馴染の国光くんもいる。氷帝に入る頭があれば青学でも差し支えはないだろうということで、編入の手続きが進められた。
晴れて青学高等部に合格し、一足先に帰国することになった。当時まだ退院できないでいたの帰国に合わせたいと言ったものの、入学式から行かないでどうするという祖父に負けたからだ。祖父母はに付き添うということで、僕は3人が帰国するまでは国光くんの家に居候させてもらうことになった。テニス部に入部し、国光くんとテニスをするという長年の夢を叶えたわけだけど、が帰ってくるまではなんだか落ち着かなかった。
そして学校生活にも居候生活にも慣れた6月、フランスからの帰国する日が決まったという嬉しいニュースと、が氷帝に復学することになったという衝撃的な話が同時に伝えられた。
「なんで!」という怒声に、祖父は冷静に父の後輩である太郎さんが強く氷帝に復学することを勧めたことを語った。祖父母ものピアノの才能に期待をしていたため、強く拒否できなかったとすぐに理解できた。
守ると決めたのに、そばにいられないなんて。今は、ピアノを弾けるような状態じゃないのに。なんて無配慮で、横暴なんだろう。噴出す黒い感情に蓋ができなかった。
昨日、が電話越しでピアノを弾き始めたと話したときもそうだった。随分と明るくなった声に、時おり聞こえる笑い声。どうしてそれを取り戻したのが自分じゃないんだろう、と自分勝手な感情が渦巻いて、自己嫌悪――
「眉間に皺が寄ってるよ、。何か気に食わないことでもあるのかい」
顔を上げると、困ったように笑う不二先輩。
「らしくないなぁ。どうしたの?動きにも無駄な力が入ってるみたいだし」
「いや、ちょっと考え事を。ときどき、自分が嫌いになることがあって」
「自己嫌悪?」
「だれよりも自分が近くにいたいのにそうもいかなくて、だれよりも幸せを願ってるのに実際向こうが幸せそうにしてるとなんだか面白くなくって。ほんと、自分勝手なんです」
「まるで恋だね」
不二先輩が微笑むものだから、「いえ、姉のことなんで」と付け加えておく。(変な誤解は面倒だ)
「それは残念」というも、ちっとも残念そうな顔じゃなくて怖い。
「でもその気持ち、分かる気がするよ。うちにも弟がいるんだけど、僕の弟として見られるのが嫌で転校してさ。僕としては一緒にテニスやりたいと思うのに」
「……へえ」
「昔はそれがすごく面白くなかったんだけど、楽しそうにテニスしててめきめきと上達してる裕太を見たら、まぁいっかって思うようになったよ。
も、もっと気楽に考えるといい。こっちがどれだけ心配しても、何も始まらないんだから」
不二先輩は球をラケットで掬うように止め、「そろそろ戻ろう」とコートを指した。球を受け取りながら礼を言うと、「お互い苦労するよね」なんて相変わらず涼しそうな顔で笑っていた。
***
スタンドに戻ると、いささか緊張した雰囲気が漂っていた。聞くと、D2も負けてしまったということらしい。ベンチには頭にタオルを乗せ、肩で息をするゴールデンペアの姿があった。いきなり、背中をバシンと叩かれる。振り向くと桃城がいる。なんだかとても気合が入っていた。
「ぜってー負けんじゃねぇぞ!」
「そんな怖い顔で言われても。僕が出なきゃいけないのはお前の捻挫のせいなんだから文句言うなよ」
「はー!お前もっと気合入れろよ!男だろ!」
「(疲れる…)とりあえず勝ったら1週間マック奢れよ」
「、がんばれ」 不二先輩が笑顔で手を振る。
「思いっきりいけ。くれぐれも油断するな」 国光くんは相変わらずだ。
ベンチで竜崎先生とゴールデンペアに喝を入れてもらって、コートに入る。すでにコートに入っていた氷帝の選手と審判に「お待たせしました」と声を掛けた。
対戦相手は、さらさらした茶髪の髪を切りそろえ、きりりとつりあがった目が印象的だ。凛とした雰囲気を纏っている。サーブは僕がもらうことに決まると、「よろしく」と声を掛けて位置につく。
なんたって、日本での初試合。さっきまでの暗い気分はどこへやら、楽しむモードに一瞬でスイッチが切り替わる。まずはうるさい応援団を黙らせることからいこうか。
「最初が肝心、かな」
***
「1−0 青学リード」
サーブだけで早々にワンセットを取ると、勢いのあった応援団の声援もぱたりと止んだ。氷帝の人たちも驚いているようで少し面白い。
「なになにあのサーブ!すっげー!」
「バウンドしないサーブか、やってくれるね」
「桃城から補欠が出るて聞いてんけど、補欠ってレベルやないやろ」
「ってかアイツ誰?初めて見る顔なんだけど」
「どらぁ若、びびってんじゃねーぞ!」
初めて見る顔と言われ、そういえば青学も氷帝もほとんどは中等部とメンバーが変わらないらしいからな、なんて思いながら返球する。なかなかするどい打球だ。
ちらりと敵のベンチに視線を飛ばすと、見慣れた――僕の苛々の原因の一部でもある人がいた。あとで挨拶に行かなきゃ。
「ゲームセット ウォンバイ 6−3」
試合終了を告げる審判の声で、ネット際に駆け寄って握手を交わす。
「そのフォーム、面白いな。武道かなにかやってる?」
「ああ、古武術を」
「どうりで。なんか雰囲気がテニスと違うなぁと思ってたんだ。僕は青学1年。君は?」
「氷帝1年日吉若だ」
またな、と自分のベンチに足を翻す。遠目に見ても、沸き上がっているのが分かって笑える。
***
コート整備のため15分の休憩が入るというアナウンスが流れると、汗を拭く手を止めて国光くんに駆け寄る。
「ちょっと榊さんに挨拶してくる」
試合後は表彰式なら何やらで忙しいだろうから早めにしておきたい、と手短に伝えると、「分かった」と国光君は頷いた。
休憩中と言えど、氷帝のスタンドは非常にアウェイな感じだった。何だお前、という視線が遠慮なく向けられている。しかし、そんなのを気にしている時間もないので足早に目的の人物へ歩を進めた。
「ご無沙汰してます、太郎さん」
自分が監督の知り合いであることに驚いたのか、はたまた太郎さんと呼んだことに驚いたのかは分からないが、とりあえずそんなような表情が広まった。その中には日吉もいる。
「ああ、か。だいぶ腕を上げたようだな。お前が青学を選んだことが惜しまれる」
「それは光栄です。それよりも、のこと色々助けてくださってるみたいで。本人から聞いてます」
「気にすることはない。を無理やり氷帝に復学させたのが私である以上義務のようなものだからな。 それよりも、すまなかった」
義務だなんて偉そうに、と湧き上がってくる失笑をどうしようかと思っていた瞬間に飛び込んできた予想外の言葉。太郎さんは僕の目をまっすぐに見つめながら続けた。
「一度きちんと謝罪すべきだと思っていた。どんな理由をつけようと、お前を出し抜いたという事実は変わらないからな。勝手に事を進めた私を恨んでいるだろう?」
当然、と言葉にはしなかったものの、太郎さんはすべて分かっているようだった。
「苦しんでいるを一番近くで守ってやりたいというお前の気持ちも分かる。確かに青学に転校して音楽から離れた生活をすれば、は心穏やかに立ち直ることができただろう。――ただ、それだけではだめだ」
「どうして?」
僕の願いはが幸せであること。音楽がなくてもが幸せならそれでいい。そのときは自分だってバイオリンを捨ててもいい。
それだけではだめだという太郎さんが理解できない。
「人は生きる意味を求める。例えばお前が音楽を捨てたとしても、自分はを守るための生きていると生きる意味を見出すことができる。
でははどうだ。生きることのすべてだった音楽を捨て、弟に守られ、は何に生きる意味を見出す?
今、一時の困難の中で音楽を捨てれば、はこれから長い人生の中でいつかきっと後悔する、そう思ったよ」
「……生きる意味……」
の生きる意味なんて考えたことなかった。を守らなくてはいけない――僕の中にあったのはただそれだけだった。が辛くないように、が悲しくないように、が泣かなくていいように。
でもそれは、僕がいいと思うことの押し付けだったのか。
「、今は変わろうとしている。自分の手で自分の居場所を、生きる意味を見つけようとしている。どうか見守ってやって欲しい。はきっと自分の力で立ち直る」
耳に響きのいい、だけどしっかり重みのある声でそう言うと、スタンドに向かって一人の生徒を呼んだ。どうかしましたか、と長い脚で優雅に近づいてきたのは、先ほどから偉そうに仕切っていたやつだった。切れ長でつりあがった青い目。
「、紹介する。氷帝テニス部の部長で、のクラスメイトの跡部景吾だ。彼には事故についても少し話してあり、力になってくれるよう頼んである。跡部、彼は、の弟だ。今は青学に通っている」
太郎さんの紹介が終わると、向こうが「跡部だ」と手を差し出したので、自分も同じようにした。射抜くような視線になんとなく不快感を覚えなくもない。(これがこの人の特技だと知ったのは、S1で国光君との試合を見てからだ)
試合再開を告げるアナウンスが聞こえた。太郎さんと跡部に向き合い、はっきりした口調で言い放つ。
「のことよろしくお願いします。もしもを悲しませるようなことがあれば、許しませんから」
いつまでも自分勝手に苛々するのはむだだ。には大事にしてくれる人がいる、それだけで幸せじゃないか。心の狭い自分が情けない。
今の自分にできることが見守ることだというのならば、そうしよう。それだってひとつの守り方には違いない。
お手並み拝見しますよ、太郎さん。