負けてはいけないと自分に言い聞かせてきた。俺を俺たらしめるのはすべての期待と声援に答えなければいけないという使命感とプライド。それを信じて生きてきた。
13; I am (跡部)
「跡部、何だった?」
スタンドに戻ると、興味津々といった表情を浮かべるレギュラーたちの先陣を切ってジローが声を上げた。さっきまでは眠そうに目をこすってたくせに急に元気になりやがって。
「ジロー、お前はさっさと試合に行け。アナウンス入ったのに何やってんだ」
「え〜俺だけ仲間外れにすんのずるいC」
ああだこうだとごねるジローの頭を軽く叩き、「早く勝ってくればいいだろ」とスタンドから追い出す。
渋々コートに向かう後姿を見て溜め息をつくと、待ってましたと言わんばかりに次は忍足が口を開いた。
「で?あいつはの弟だったんか」
「ああ」
「やっぱりなー。名字一緒だったしそんな気がしたんだよな」
そうだな、と宍戸たちも頷く。
その横で鳳が、「先輩の弟さん、テニス強いんですねぇ。先輩もテニスしたりするんでしょうか」なんて言っている。
「いや、はやらんやろ。ピアニストに球技はご法度やからな」
「え、先輩ピアノ弾くんですか?」
「まあ最近はどうか知らんけどな」
忍足を咎めるように、岳人が「侑士」と呼んだ。そんなことには気付いてない様子の鳳は「今度聞かせてもらいたいなぁ」とにこにこしている。
の事情については、本人も口にしないし俺たちも暗黙の了解的に口を閉ざしていたため、未だ知っているのはあの日監督から直接聞いた俺たちだけだ。
夏休みが終わってとテニス部の関わりが減ったというのもある。と今でも話すのは学年が同じ俺たちと、マネージャー業を頻繁に手伝っていた鳳や樺地、日吉ぐらいだろう。
鳳たちにも言っておくべきかと一瞬悩んだが、あまり過保護にするのもと思い直してやめた。
すると、客席から観客席に近づいてくる人影。なにやら不安そうな顔でベンチに座る監督に声を掛けた。監督がその声に振り返る。
「太郎さん!今、が来てましたよね」
「ああ、もう戻ってしまったよ」
「何か失礼なこと言ってたらすみません。、私が氷帝に復学したことをまだ良く思ってないみたいで…」
「心配することはない、挨拶にきてくれただけだ。は、一番近くでお前を守りたいのにそれを邪魔された上、自分の知らないところでがすくすくと元気になっていくことに嫉妬しているのだろう。いい弟じゃないか」
が俺に向かって「本当?」と尋ねた。「そうだ」と短く返事をする。それを聞いては安心したように表情を緩めた。
用はそれだけだったのか、それじゃあと立ち去ろうとするを、ここで見てけばいいじゃんと向日が引き止める。
「私、選手じゃないのよ」
「臨時マネージャーだろ。一応部員だって」
いや違うでしょ、と言うを結局向日が強引に押し切った。は何を言っても無駄だと思ったのか大人しく向日の横に腰を下ろす。
「それにしてもの弟強えんだな。ビビった、若だって弱くねぇのに。これまで騒がれてないのが不思議だぜ」
宍戸が言った。他の奴らも同じようなことを口々に言い、いつの間にかを中心に輪ができている。
こいつら試合中だってことを忘れてるだろ、という顔で見ていたら、隣でビデオを回していた滝も苦笑を浮かべていた。
「私が高等部入学までフランスに住んでて、日本の試合に出ることはあんまりなかったからじゃないかしら。向こうではちょっと有名だったのよ」
「ってかお前フランス育ちかよ!すげーな」
「お嬢様やねんな。受験は帰国子女枠とか?」
「うん。といってもフランスに引っ越したのは小学校の高学年の時だから5年ぐらい住んでただけなんだけどね。もともと父の仕事の拠点がヨーロッパだったから」
そんな平和な空気が、鳳の一言に凍った。
「海外拠点ってすごいですね。先輩のお父さんはどんなお仕事してるんですか?」
急に変わった空気に、鳳は俺なんか変なこと言った?と日吉に目配せしている。日吉もいささか驚いたようだ。
しかし、その空気の中で普通にしていたのがだった。凍る2年と困惑の1年のどっちも分かるというように苦笑を浮かべる。
「うちの父親、ピアニストだったの。去年飛行機事故で死んじゃったんだけど。
今変な空気が流れたのは、そのことを知ってて、私を気遣ってくれたからだと思う」
びっくりさせてごめんね、と笑った。
「いっ、いえ…こっちこそつらいこと聞いちゃってすみません」
心底申し訳なさそうに謝る鳳に、は「大丈夫だよ、みんなが気にしすぎてるだけだから、本当に気にしないで」と逆に焦ったように答えた。
そんな様子に俺の隣で滝が「意外だなぁ」と呟く。
滝が言うように、があまりにさらりと父親の事故を口にしたこと、それでいて何も動揺していないことに驚いたのは俺たちのほうらしい。見るところ、本当には何ともなさそうである。
今だって、鳳に向かって「RENっていうんだけど知ってる?」と自ら父親の話題を振っている。触れられたくないことであれば違う話題を振ればいいことだ。RENの話を続けていることからもそれほどが気にしていないということがわかる。
確かに両親を亡くしているという事実は変えようがない。の中でもすでに区切りというか諦めがついているということだろうか。
俺は小さい頃に母親を亡くしているが、その時の記憶はほとんどない。父親は仕事で各地を飛び回っていてあまり会うことはないが、死んでいるというのとは違う。だから、両親がいなくなったというの気持ちを理解することはできない。それは俺だけじゃなく、他の奴らにも言える。
だからこそ、戸惑っているのだ。自分には理解できないと思えば思うほど、慎重になる。言葉も態度も、ああしたら悲しませるかもしれないと想像を働かせて接するしかない。なぜかは単純明快。ただ傷つけるのが怖いから。
そこまで考えてふと、俺たちは想像することしかしていないのだと思う。RENについてもの過去についても監督から聞いたにすぎず、実際と話したわけではない。がどう思っているか知ることもしないで、監督の話だけで触れてはいけないと決め付けていた。――それはつまり、向き合っているようでそうでないということ。
「案外、気にしすぎて線を引いてるのは俺たちかもな」
小さく言った言葉に、滝だけが反応した。
「うん。お互い、言葉にしなきゃいけないことがたくさんあるんだろうね」
***
「ごっめーん、跡部負けちゃった」
ほんと不二は強いC!と別段悪びれた様子もなくジローがスタンドに戻ってきた。
「お前な、せめて顔だけでももうちょっとすまなそうにしたらどうや」
「うへへ。ま、次は跡部だC」
「いやでも手塚やで、わからんやろ」
「跡部は負けねぇよ」
そんな会話を背に、コートへ向かう。
勝者は氷帝、勝つのは跡部、という聞き慣れたコールが会場中に響いていた。
自分はこの声援に答えなくてはいけない。負けることは許されない。
沸き上がる感情をすべてを振り払うように声を上げる。
「勝者は俺だ」
まるで自分にそう言い聞かせているようだといつものように思った。
「ゲームセット ウォンバイ跡部 7-5」
ぼたぼたと滴る汗を腕でぬぐった。審判のコールに押し寄せる疲労と吹き飛ぶ緊張。
沸き上がる歓声を聞きながら、勝ったことではなく、守り抜いたことにひそかに安堵した。
一番上に立つ者は孤独だ。
これを越えたいという明確な標的が見えず、追うのは形のない理想のようなもので。
くっきりと見えるのは自分を目標に駆け上がってくるものばかり。
そればかりか、なんでもできて当たり前とでもいうような視線や期待。ひとつやふたつ弱音の吐き場も見当たらない。
ただそれは一番上に立つことができた者のみが知り事ができることであって、極上の優越感を味わうことができる。自分は天才だという自負。嬉しかった、最初は。その時はまだ一番であり続けることの孤独なんて知りもしなかった。
すでに優勝を喜んでいるスタンドに、「整列だ。並べ」と短く言う。
その声に急いで駆けてきたレギュラーたちが、「跡部お疲れ!」と俺の肩を叩いていった。
表彰式は長い挨拶もなくあっけなく終わった。コートではテントやら器材やらが着々と片付けられている。
水道へ行こうとコートを出たところでと鉢合わせた。これから帰るところなのだろうか。その表情が浮かないことが気に掛かった。青学が負けたことを残念がってるのか、それともやはり事故の話をしたことを後悔しているとでもいうのか。真意が分からない。
が浮かない表情のまま口を開いた。
「優勝おめでとう。みんなが必死に戦ってる姿にちょっと感動したよ。うん、すごかった」
表情とは正反対の言葉にますます理解が困難になる。
「…そうか。退屈じゃなかったなら良い。今から帰るところか?」
「そうよ」
「門まで送る」
こんな暗い表情のまま放っておくのは後味が悪い。
いいのに、というを無視して俺は門に向かって歩き始める。
学校内はまだ試合を観に来た人々が残っていてやけに騒々しかった。
「なんでそんな浮かない顔してんだ」
試合の疲労もあって長々と話を聞く気になれなかった俺は、気になっていることをそのまま声にした。先刻の、「言葉にしなきゃいけないことがたくさんあるんだろうね」という滝の言葉がよみがえった。
隣を歩くは少し下を俯いている。
「落ち込むほど感動したってわけでもないだろ。言わなきゃわからねえ、それとも言えねえようなことか「跡部君」
遮る声。の砂を踏みしめる足音が消えた。
振り向くとのまっすぐと見据えられた視線。切れ長の瞳は細められ、その表情は苦痛に歪んでいるように見えた。
「跡部君は、孤独だね」
いつもとは違う、少し強い口調で告げられた一言に一瞬息が詰まる。
「跡部君は孤独だね」というたった3秒の言葉が頭の中でリフレインする。まるで水面に波紋が広がり続けるように。
「あん?言ってる意味がわからねえな。俺は…」
「頑張ってた本人にこんなことを言うもんじゃないことぐらい分かってるけど、跡部君の試合、見ていて痛々しかった。大きすぎる声援や期待、羨望の視線。色んな重圧に囲まれた跡部君の背中は本当に小さく見えた」
全身から力が抜けていくような感覚。
自分が孤独なことぐらい自分だって分かっている。その孤独との闘いに負けることを恐れていることも。
しかし、自分で認めているのと、他人に知られるのでは訳が違う。
余裕のない自分を知られたくなかった。可哀相だ同情されるなんてまっぴらごめんだ。想像するだけで気分が悪くなる。だからの視線も声も今すぐにでも消してやりたい。そんな目で見るな、そんなこと言うんじゃねえ。
「………ごめん、もう帰るよ。ここでいい、また明日」
が立ちすくむ俺を抜いて行った。何か言わなければ。否定しなければ、弱弱しい自分を他人にも認められてしまう。
「俺は…負けるわけにはいかねえんだよ」
たいした言葉が出てこなかった。酷い言葉だと思った。負けるわけにはいかないなんて、孤独を認めたようなものじゃないか。声も上ずった。
が振り向く。
「自分は特別、私ならどんな期待にも答えられる……私もそう思ってた。
でもそんなのただ思い上がり。私たちは未熟だらけの高校生にすぎないのよ」
それだけ言ったは足早に去って行った。が校門の外に消えた後でも、俺の足は動かなかった。
私たち。
が何を感じてどんな思いをしてきたのか知りたくなった。
どうしたらそんなに苦しそうな顔ができるんだ――