「グランドピアノとパイプベッドって、微妙……」

リビングを見渡して溜め息をつくに、私は苦笑するしかなかった。



14;気のおける場所 (




夏休みの終わりに、が見たリビングの様子とは全く変わってるのだから仕方がない。今リビングの真ん中にはグランドピアノがどっしりと居座っていて、さらにその横には、普通ワンルームでない家のリビングにはまず置かない黒いパイプベッド。薄茶のカバーの掛けられた掛け布団の、ぐしゃぐしゃのまま無造作にベッドの上に乗っかっている様は、ここにただ一人の住人である私が起きぬけであることを物語っている。シーツに手を触れればそこはまだ温かいだろう。

顔を上げてちらりと時計を見れば、まだ朝7時。土曜日ぐらいもう少し寝かせてくれたっていいはずだ。そういえば昔からは早起きだったな、なんて思い出しながらもう一度ベッドに寝転がる。8ヶ月前まではと一緒に暮らしていたはずなのに、はるか遠い思い出のように思い出されるのはどうしてだろう。

「折角弟が訪ねてきてんのにまだ寝る気かよ」
「……来るの早い」
「天気のいい日にいつまでも寝てると腐るぞ。コーヒー淹れるから、は布団干しといで」

もうちょっと……という抵抗も、「早く」という一声にかき消されて虚しく終わる。私はまだぼーっとする頭のまま、掛け布団を両手に抱いてベランダに出た。ベランダから見下ろす街の様子は、平日とは打って変わって時間がゆったりと流れているように見える。通りをゆく人も車も少なく静かだ。

一通り布団を干し終えて、ベランダの柵に腕を乗せてジッと街の様子を眺めていると、背後から「コーヒー入った」という声がかかる。部屋に戻るとすでにはダイニングテーブルについてコーヒーを啜っていて、の向かい側には湯気のたつマグカップが置かれている。部屋に漂うコーヒーの良い香りに誘われて、私も席についた。


「で、また思い切った模様替えだね。リビングの真ん中に堂々をグランドピアノを置いている家なんて見たことないし、さらにベッドまで置いてある。こりゃ隅に追いやられたソファが泣いてるな」
「だって私一人にこのリビングは広すぎたんだもの」

このマンションを買ったのは私が高校に上がる少し前で、“高校は氷帝に”と決めていた父が、通いやすいようにとわざわざ氷帝の近場を選んで買ったものだ。全室防音完備になっていて、周りを気にすることなく楽器を弾くことができる。父の部屋にはグランドピアノ、私の部屋にはアップライトピアノがそれぞれ設置されていて、今このリビングにあるのは父の部屋にあったものだ。

これまで4人で過ごしたリビングは私一人には広すぎて、一人取り残されてしまったという寂寥を感じざるを得なかった。それでも、持ち主のいなくなったグランドピアノを弾くために父の部屋へ踏み入れるのは苦痛だった。何一つ音のしない、まるで時が止まったかのような部屋は、未だ父の匂いで溢れている。
グランドピアノを移動したいという旨を伝えると、太郎さんは快く詳しい人を紹介してくれ、こうやって無事にリビングへ運ぶことができた。一度弾き始めたら止まらなくなった。自分の部屋へ寝に戻る短い時間さえも勿体無くなって、パイプベットまでリビングに持ち込んでしまったのだ。それまでリビングの真ん中を陣取っていたソファは残念ながら部屋の隅へ移動してもらい、窓際の部屋の角の観葉植物と仲良く並んでいる。


「ほんとうにピアノ弾いてるんだ」

床に散らばる楽譜に目をやって、は言った。そう言いたくなるの気持ちはよく分かる。日本に帰ってきて、新学期が始まるまで過ごした短い時間の中の私は、確かに音楽を避けていた。それが久しぶりに来てみれば、ピアノとベッドは一緒に置いてあるし、床には楽譜が散らかっている。この変貌振りは何だ、と誰だって思うだろう。私だって、ピアノを弾いてる自分を時々不思議に思うぐらいなのだから。

、学校は楽しい?」
「うん」

コーヒーから立ち上る蒸気が顔を温める。マグカップの取っ手に指を掛け、少し啜った。熱に痺れた頭に浮かぶのは、「お前は、じゃあ何で認めてもらうんだ」といった背中や、「は怖がってるだけだよ」と抱きしめられた腕。

私だって分かっていた、自分が現状に甘えてピアノから目を背けていることぐらい。両親が死んだという現実を受け入れられない自己の肉体と精神に、「大丈夫、時が癒してくれる」と慰めてくれる周囲の存在。

甘えは沼のように、どんどん私を深みへと飲み込んだ。「まだ怖いの、弾けないの」と言えば、差し伸べられる手。自分の狡さに吐き気がする。けれど、私は差し伸べられた手に縋ることしか出来なかった。独りになりたくない、置いていかれたくない。その姿は、人混みの中で必死に母親の手を掴む子どもに似ている。ちょっとしたはずみで、その手は簡単に離れ、あっという間に母親を見失う。子どもはただ泣き叫ぶしかない。導いてくれるものが分からない、迷子。

私も迷子だった。私はどこへ向かって生きていけばいいのだろう、いくら考えても答えなど見えないし、与えられもしない。その場に立ち竦んで、泣き叫んでいた。

それでも、迷子を助けてくれる人がいるように、「弾けよ」と背を押してくれる人たちが私にもいた。差し込んだ一筋の光。父のように音の星を降らせたい、これが自分の生きる道―――

気づいてからは一分一秒を惜しんでピアノを弾いた。湧き出る力。ピアノが己の原動力だったことを今更知るなんて、ばかだ。


、ごめんね」
「なにが?」
「私は氷帝でよかったと思ってる。だからごめん」

はマグカップに口をつけながら、「がいいのならば、それが一番よかったんだ。謝る必要なんてないさ」と微笑みながら言った。私は目をつぶって、の優しさに深く感謝した。身体の奥が温かいのは、コーヒーの熱のせいだけではないだろう。


「それより、もうこんな時期か」

顔を上げると、の手には白い封筒が握られていた。ブルーのインクで書かれた、A.Keisukeという流れるような筆記体。中に入っているのは、父の学生時代からの友人である景介さんが開く、息子の誕生日パーティーの招待状だ。父は時間があるときだけ、参加していた。

は行くんだろ」
「ん。直接、招待状もらっちゃったしね」
「景介さんの息子って、あいつだろ。氷帝の部長。景吾だっけ?」
「よくわかったわね。私なんて招待状渡されるまで気づかなかったのに」
「まあ跡部なんてよくある名字じゃないからな。それに、ちょっと前に親父の書斎を片付けてたら、数年前のパーティーの写真が出てきて、景介さんと息子が写ってたんだ。偉そうな顔してたから覚えてた」
「……」
「大体、ぼくたちはもう十年以上会ってないわけだから、分からなくても仕方ないんだけどさ。跡部景吾だって気づいてないだろ?」

肯定するように、こくりと頷く。景介さんに息子がいることは知っている。小さい頃、会った。でも、その微かな記憶の中に彼の顔は残っていない。思い出そうとしても、その姿は全体がかすんでぼやけている。

も行く?」
「僕は迷わず部活に行くよ。招待してくれた景介さんには悪いけど」

はコーヒーを飲み干すと、席を立った。冷蔵庫を物色し、食パンと卵を取り出す。食パンをトースターにかけると、卵をフライパンに割った。ジュと卵の焼ける音と同時に届く、「一緒に届いた箱、開けてみた?」の声。

「開けてないわ」
「ブルーのドレスが入ってた。今年のプレゼントはすげーな。よっぽどに来て欲しいみたいだ」
「ドレスって、そんなパーティーだっけ…」
「写真見たけど正装だったな。折角なんだから着てってあげなよ。随分痩せたし、一度着てサイズ見といたほうがいいと思うよ」

私は、自分の何倍も手際よく朝食を準備するの背中を見つめる。こういうことはのほうが得意だったな、と思う。というか、私ができないからができるようになってしまったと言うほうが正しい。演奏旅行で家を空けがちな両親の代わりに家事をこなしていたのは弟だった。自分にできることといえば、本当にピアノを弾くことぐらいしか思いつかない。


「私、ピアノを弾こうと思う」

自分なんかとは比べ物にならない、たくましい背中に向かって言った。が振り返る。「ん?」

「パーティーのBGMとして、少し弾かせてもらうわ」
「パーティーって、跡部の?」
「ええ」

は手を止め、振り返った。困ったような表情を浮かべている。

「跡部の家のパーティーだ。内輪で集まるようなものじゃないし、色んな人が来る。のことを知っている人もいるかもしれないよ」
「分かってる」
「どんなことを言われるかわからないよ。立ち直れないほど強烈な中傷もあるかもしれない」
「……そうね。でも、私がピアノを弾くのだったら、遅かれ早かれぶつかることになる。いつまでも逃げているわけにはいかないわ」
……」
「こわいよ、とても。でも、聴いてもらいたい。景介さんにも、それに、背中を押してくれた人たちにも。だから弾くの」


「もう景介さんに了承してもらったから」というダメ押しの文句に、は「事後報告って、相談する気は全くないんだな」と苦笑した。すでに止めていた手を再び動かし始めている。

私はすっと席を立って、慣れた感触の椅子に座る。鍵盤を覆う蓋を開け、右足をそっとペダルに添えた。手を柔らかく白と黒の鍵盤に乗せる。


「それでも、やっぱり一番に聴いてもらいたいのはよ」


すっと息を吸うと、流れるように指が鍵盤をなぞっていく。
だれよりも心配してくれた大切なへ、精一杯の謝罪と感謝を込めて。