彼女が望むのならば、あなたに代わって全力で守ろう。
蓮、の演奏が聴こえるだろう?

ep.6
すっかり辺りを闇が包み込んでいる。目を凝らして見ないと、全てが闇に飲まれてしまいそうな、そんな暗さだ。強くなってきた風が周辺の木々を揺らし、ざわざわと音を立てている。
その闇の中で、スッと動いた影を、景介は見逃さなかった。
「覗き見とは、いささか趣味が悪い」
足早に闇との同化を目論む塊の前に立ちはだかる。その表情は暗くて読み取ることは難しかったが、僅かに喉が動いたような気がする。いや、実際には動いていないのかもしれない。でもそんなことは景介にはどうでもよかった。この男が、闇の中に姿を潜めて、大事な友人の娘の動向を伺っていたことが問題なのである。
「そちらの編集長さんからは、欠席の旨を連絡頂いています。こちらに何か御用ですか、黒崎さん」
景介の声は静かであり、穏やかだった。それでも、ざわめく風の音を消し去るほど確実に空気を振動させた。穏やかでありながら、同時に矢のような鋭利さも持ち合わせている。
黒崎と呼ばれた男は、観念した、とでもいうように足を止めた。ブラックスーツに、めでたい席には不釣り合いな漆黒のネクタイを締めるこの男は、肌とシャツだけ異様に白く、闇に浮かび上がっている。その出で立ちは否応なく喪服を連想させた。
「あのお嬢様に一言嫌味でも言ってやろうと思ったんだが、直接伝える機会がなくて残念だ」
黒崎の、心底残念だといった口ぶりで薄く笑う姿に、景介は不快感を強めた。
この程度の事態は想定の範囲内であったが、やはり負の感情を抱えた人間との対峙はいい気分ではない。
それでも、今後もがピアノを弾き続けるつもりならば、避けては通れない道のひとつであることは確かだった。
黒崎――音楽雑誌の編集者。
人の目を惹く長身。細身をより強調したブラックスーツ。リムレスの眼鏡。その奥に光る切れ長の瞳。纏う煙草の匂い。
この男もまた悲しみを背負っている。
「嫌味を言うためにこんなところに乗り込んでくるとは、感心しませんよ」
「生憎、性格の悪さには定評がある。自分だけが傷ついていると思い込んだお嬢さんが気に入らなくてね」
「……いつからをつけている」
「おいおい人聞きが悪い。が帰国したっていう情報がこちらに入ったのはつい先日だ。ちょっと顔でも見てやろうと思ってマンションで張ってたら、たまたまここに行き着いただけさ。ま、演奏まで聴けるというのは予想外だったがな」
ふらふらと立ち寄れる場所ではないことは、主催者である景介が一番よく分かっている。黒崎のために編集長が招待状を流したのだろう。
この男が言うことにも一理ある。確かに、あの事故で大切な何かを失ったのはだけではない。今も、やりきれない、やり場のない感情を抱えて生きている人たちがいる。
「一つ訂正させてもらいましょう。のことを、『自分だけが傷ついたと思っているお嬢さん』と言いましたが、本当にそう思っているなら彼女を見くびりすぎです」
「何だと?」
「は分かっていますよ。自分が表舞台に立つことを快く思わない人間がいることを。すべて受け入れた上で、彼女は弾くことを選んだ。聴いたでしょう?彼女の決意を」
だから、嫌味を言わなかった。いや、言えなかったというほうが正しいのかもしれない。
景介には自信がある。の演奏が、黒崎の憤りを霧消させるだけの力を持っていたことに。
「彼女は真剣にピアノと向き合い、今後演奏家として羽ばたく。――わたしは、あなたが力になってくだされば心強いと思っていますよ」
返事はない。
景介の言葉に、黒崎は目を伏せ踵を返し、すうっと黒い闇に姿を消した。風が相変わらずざわめいている。
***
ほどなくしてパーティーは、主催者である景介の「今後ともよろしくお願いします」といったお決まりの挨拶で幕を閉じた。人の波が揺らめく隙間を縫って、たちは足早に会場を後にする。
跡部に促されるまま、一向はパーティーまでの待ち時間を過ごした客間に通されると、そこには、てきぱきと料理を運び込む使用人達の姿があった。跡部がそのうちの一人に理由を問うと、
「旦那様から、こちらに料理を運ぶように仰せつかっております」
と一瞬足を止めて答え、何事もなかったかのようにもとの流れに戻っていった。使用人たちは無駄のない動きで、部屋の一角に手際よく料理を並べていく。量はそう多くないが、その種類の豊富さから、手が込んでいることが見てとれる。パーティーで大忙しだっただろうシェフのことを想像して跡部は少し眉間に皺を寄せたが、親父の頼んだことであれば自分が何を言っても状況は変わらないだろうと気づき、考えることをやめた。各々ソファに腰を沈め、一息をつく。脚にまとわるなんとなくだるい感覚は疲労だろう。自然と、話題は用意されている料理に向いた。
「跡部んちで和食って珍しくね?」
「ジローもそう思った?!跡部んちのシェフも、肉じゃがとか作るんだなってちょっと俺、感動した」
「感動って大げさだろ。まあ、俺もちょっとびっくりしたけど」
「何だよ人のこと言えねーじゃん」と向日は宍戸に向かって言う。実際、長年付き合っている友人でも驚くほど、この家で和食が出ることは珍しかった。珍しい和食の意味が分かるは、こっそり溜息を漏らす。
(……甘やかしすぎというか、気を遣いすぎというか)
景介は、が演奏前に食べ物を口にしないということを心得ていた。理由は簡単で、父親もそうだったからである。誰が何を用意しても、集中力を欠くと言って絶対に手をつけようとしなかった。食や会話といった周囲との接点を極力減らし、とにかく自分の世界に入り込む。そして演奏を終えて舞台を降りた後、ふと空腹だったことを思い出す、と蓮は言っていた。ただ、の場合、意識して口にしないのではなく、単純に緊張で喉を通らないだけなのだが、他人から見れば父親の癖を受け継いでいるように見えるのだろう。今、この部屋に和食が用意されているのも、蓮が演奏後に和食を好んで食べたからだ、とは確信している。
(でも、それを説明するのはちょっとめんどくさい)
極度の緊張に、プレッシャー。全部抱えて、再スタートに向かって走り続けた数時間。安堵と興奮が落ち着いた今、疲労感が身体をじわじわと蝕んでゆく。にとっては、口を開いて会話することさえも億劫に感じられた。
準備が整いましたのでご自由にどうぞ、と使用人達は一礼し、静かに退室した。真っ先に立ち上がった慈郎につられるように、向日や宍戸が追いかける。部屋が料理を見てはしゃぐ少年の声でにぎやかになった。がソファに身を任せたまま、あれこれと料理を皿に盛りつける様子を見守っていると、目の前に茶碗が差し出された。立ち込める湯気が肌を撫でる。
「お味噌汁?」
「今度はこぼさないでくださいよ。水じゃないですから、取り返しつきませんよ」
日吉は、の手がしっかりと茶碗を包んだことを確かめてから、静かに手を離した。の手に味噌汁の熱がじわりと伝わり、味噌の甘い香りが脳に届いた。やけどしないように恐る恐る一口啜ると、温かさが身体を上から下へと広がっていく。あったかい、とじんわり噛みしめているの前に、日吉は料理を取り分けた皿と箸を置いた。
「お腹空いてるんでしょう。てきとうに取ってきたんで食べてください」
「そんな後輩に心配されるほどお腹空いてるように見えるの?わたし」
「とりあえず立ち上がる気力がないぐらい疲れていると伝わってきましたけど。つべこべ言わず食べたらどうですか」
「……あったかくておいしい。日吉、ありがと」
「どうも」
「いや、料理もなんだけど、それ以外にもさ。今ものすごくだるいぐらい疲れてるんだけど、これって幸せなことだと思うんだ。逃げないでよかった。本当に、言い足りないけど、ありがとう」
は、日吉の顔をしっかりとらえてそれだけ言うと、「いただきます」と箸に手を伸ばした。日吉は、ゆっくりだが上品に料理を口に運ぶ横顔を、隣に座ってじっと見つめる。日吉自身、他人のすることに関してあまり興味をもつタイプではない。自分は自分、他人は他人だと割り切っているから、部活で少し関わった先輩がピアノを弾こうが弾かまいが、正直自分に関係はないと思っている。それでも、前向きに壁に立ち向かう姿には好感がもてるし、周囲の心を惹きつける演奏を見せつけられて、この人がピアノを弾く未来を選んだことは正しいと思う。偶然とは言え、自分がその選択に関わり、背中を押したということが不思議とうれしい。
「ま、まあまあ頑張りましたね」
「何がまあまあよ。生意気」
「なんや、日吉と、いい雰囲気やん」
「ね、!日吉なんかいいから、ピアノ弾いて欲し−!おれきらきら星聴きたい!」
「きらきら星って子どもかよジロー」
「岳人うるさいー。おれたちまだ子どもじゃん!」
「俺子どもじゃねえし!」
「えー、どっから見ても子どもだし!」
「ばッ!俺が小っちゃいからってなめんなよ!」
ぎゃあぎゃあと芥川と向日のやりとりに、だめだこりゃと呆れ顔で眺める宍戸、仕方ないなあと苦笑いを浮かべる滝、自分ら元気やなあと楽しそうな忍足、めんどくせえと眉間に皺を寄せる跡部、おろおろ焦る鳳、ふんと知らん顔の日吉、いつものことですと冷静な樺地。十人十色の反応を目の当たりにして、思わずは噴き出した。これで集団としてまとまるのだから、面白い。
急に笑い出したに、視線が集まる。は、目尻を指で拭って、「跡部」と呼んだ。
「羨ましいぐらい、すてきなチームね」
の言葉に、跡部は眉間の皺を緩める。
「お前も一員になっちまったな、?」
お互いのことを一つずつ知り合って、一歩ずつ距離を縮めていって、今がある。
この先どんな未来を紡いでいくのかは、この時はまだ神のみぞ知る。
「よろしくな」