退屈なのだ。ただ単に。いつもと同じように寿司詰めの電車に揺られて学校にきて、呪文のような授業を聞いて、何となく仲のいい友だちとたわいもないおしゃべりをして、日が暮れたらまた電車にぎゅうぎゅうに押し込まれて。ノートのページを破り捨てるように毎日が終わる。なんて平凡なんだろう。一度しかない人生だというのに。



 わたしは今日も、相変わらず退屈な日を過ごしている。今は第二言語の授業中で、いつものように窓際の後ろから二番目の席で、できることといえば窓の外を眺めるぐらい。第一希望のイタリア語は抽選に漏れて、定員割れのギリシャ語に回された第二言語の授業なんてきらいだ。ちんぷんかんぷんもいいところ。意味が分からなさすぎて、ノートを取る気にもなれない。なんで第二言語なんて勉強しなきゃいけないんだろう。英語だってしゃべれやしないのに。できる人はいいよ。できないわたしにとっては本当に苦痛な時間なのだ。




「………さすが跡部君ね。発音が素晴らしい」

 今褒められたのは、わたしの後ろに座っている、同じクラスの跡部くんだ。窓際の列の一番後ろという、授業がつまらない生徒には羨ましすぎる席に座っている。彼は、その、持って生まれた長い足で、移動教室は必ず一番なのだ。テレポートでもしてるのかと疑いたくなるほど、正確に早く移動する。まあ日本人って感じの足のわたしが教室に着いた時には、すでに跡部くんは澄ました表情で文庫本を読んでいる。わけの分からないギリシャ語もよくできるんだから、そんな後ろに座らないで、一番前に座ればいいのに、と思う。そうすれば先生だって喜ぶし、私だって一番後ろに座れて嬉しいし、一石二鳥なのになぁ。

 うちのクラスの跡部くんは、平々凡々なわたしと違って、退屈なんかとはほど遠い存在に見える。どんな授業もよくできるし、生徒会長の仕事もばりばりやっているし、テニス部でも大活躍。コートに跡部様という悲鳴が響かない日はないぐらいだ。同じ人間のはずなのに、どうしてこうもちがうものか。彼は天から二物も三物も与えられている。ずるい。僻んでもどうしようもないけれど、僻まずにはいられないわたしの気持ちを神様は察するべきだ。

 考えたら余計に面白くなくなった。平凡に生まれ、大した特技もなく、そんな何も持たないちっぽけな女の子が希望したイタリア語は抽選にはずれるわで、なんてついてないのこの人生。そんでもって跡部くんを僻む自分の心の狭さに涙が出る。だれでもいいから慰めてほしい。悲劇のヒロインぶったっていいじゃない。

 早く終われ、この授業。なんて思っていたら、何かが背中に触れるような感覚があった。ん?と思うものも、無視していると、次はより確かに背中を突かれた。

 「なに?」私は教師の目を盗んで後ろを振り向き小声で早口に言った。視線の先には、わたしの気分をブルーにさせた張本人の姿がある。色白な肌に、スッと通った鼻筋、少し釣りあがったその瞳は長いブラウンのまつげが縁取っている。添えられた泣きぼくろも色っぽい。美しすぎて腹が立つぐらいだ。わたしとは天と地ほどに差のある跡部くんが、一体何の用だというのだ。

「悪い、ボールペンのインクが切れた。何か書くもの貸してくれねえか」

 彼の机の上に目をやると、教科書にノート、電子辞書と一本のボールペンがあった。ノートの文字はおそらくそのボールペンで書いたらしい。最後の行はインクの付きがまばらで、次第に薄くなっていっている。ノートの隅には、ぐりぐりとボールペンで殴り書いた螺旋。螺旋の最後は紙に跡がついているだけで、わたしは虫の息だったインクがついに事切れたことを悟った。

 ボールペンでノートをとるなんて、高度すぎる。彼は間違えたりしないのだろうか。わたしの机の上には、消しゴムのかすが散らばっているというのに。同じ教室で勉強する人間同士なのに、どうしてこんなに差があるかと哀しくなる。

 と、落ち込んでる暇はないんだった。跡部くんはこっちを見ているので、わたしは慌ててピンクのペンケースをさぐる。基本的に、シャープペン一本と、マーカーと、三色ボールぺンしか入れていない。余計なものを持ち歩いて荷物を重くするのがきらいなのだ。化粧ポーチのように巨大なペンケースを持ち歩く子の気持ちはさっぱりわからない。だから、人に貸せる余裕なんてない。三色ボールペンだって、丸付けに使うし貸したくないけど、跡部くんがこんなわたしを頼ることなんて一生に一度のできごとだ。短い時間だし、けちけちしないで貸してあげようとボールペンを取り出そうとしたとき、指が別のものをつかんだ。なんだこれ?

 ペンケースから出てきたのは、かわいいクマの絵がついたシャープペンだった。銀色の星型のチャームがついていて、無駄に重い。まぎれもない、小学生の妹のものだった。そうか、昨日リビングに放置されていたこのシャープペンで宿題をやった時、そのままペンケースに入れてしまったらしい。

 これを跡部くんが使う姿っておもしろそうだよね、と思ってしまった。あの跡部くんが、あほなほどのんきな顔をしたクマの絵のシャープペンを使う。アンバランスすぎて笑える。

「ごめん、文具たくさん持ち歩かないんだ。これでいい?」

 どんな反応をするんだろう、と内心ワクワクを止められないわたしは、期待を湛えた目で彼を見た。が。彼はなんてことはない、「ああ、ありがとな」と受け取るとさらさらとノートを取り始めた。シャープペンなど見向きもしないではないか。

 ……ぐったり。なんかものすごい敗北感。

 はぁと小さく溜め息をついて、前を向きなおす。先生がカツカツと黄色いチョークで黒板に何か書いていた。重要ポイントなのだろうが、わたしの頭にはちっとも入ってくる気配がない。耳をすませば、跡部くんが何かノートに書き付ける音が聞こえたような気がした。目だけをすうっと動かして周りを見渡せば、真剣にしゃべり続ける先生と、真剣に聞いているように見える生徒たち。彼らが果たして本当に聞いているかは知る由もないが、とりあえずこそこそあたりを見回しているわたしよりは真剣なのだろう。

 この教室で、確実にわたしだけが浮いている。そんなことを考えていたら、なんだかひとり取り残されたような、物凄く萎えた気分になって、(……早く授業終われ)と足をぶらつかせた。ええい、こうなれば教科書の挿絵に落書きして時間をつぶそう。さわやかな笑顔で挨拶を交わす男女の絵に、変な吹き出しでもつけてやる。

 「はぁい、アリス。きょうもいい乳してるね!」「いやあね、ルーカスったら。本当にスケベなんだから!」「君がそんなに魅力的なおっぱいをしているのが悪いんじゃないか。人聞き悪いこというなよ、ボインちゃん」「ん、まあ!」 ここまで書いたとき、ようやく授業の終了を告げる鐘が鳴った。日直のだれかがだるそうに「きりーつ、礼」と号令をかけると、みんなそれに倣って頭をさげた。

 やっと昼だー、早く学食行こ、などといった歓喜の声をあげ、足早に教室を去っていくクラスメートを後目に、わたしはまだ、落書きにまみれた教科書を見つめている。

(うーむ、ありきたりかなあ。ぎりぎり60点ってとこだな)

 自分の落書きを採点しながら読み返していると、教科書にふっと落ちる影。み、見られる!と教科書を慌てて閉じた。い、嫌な予感がする……背中をツーっと冷たい汗が流れ、おそるおそる振り返ると、嫌な予感は的中、そこにはあのクマのシャーペンを貸した跡部くんが立っていた。

「……見た?」
「ああ?朗読してやろうか?『はぁい、アリス。きょうもいいち「ぎゃああやめて」

 とっさに跡部くんの口元に向かって、その口を塞ぐよう手を伸ばした。やめて跡部くんのくちからチチとかオッパイとか聞きたくない!
 学園のカリスマ・跡部くんにこんならくがきを見られ、わたしは「へへっ」っと笑うしかなかった。そりゃあわたしだって女の子だもん、かっこいい人には好かれたいに決まってる。それなのになんて悲惨…!心は泣いてるよ。

「ったく、そんな落書きしてるぐらいだったらそっちの三色ボールペン貸せよ。このシャープ、チャームがちゃらちゃらして書きにくい」
「はははっ……ですよねー」
「ま、借りといて文句言うのは失礼か。ありがとな、助かったぜ」

ほらよ、とシャープペンを差し出す手は大きくて、幼稚な柄には不釣合いだった。こんなに大きな手なんだ、指も長い、爪も短く切ってあるんだとか、跡部くんの手をこんなにまじまじ見つめるのは初めてだ。


「なぁ
「え?」
「おまえっておもしろいな」

 跡部くんは目を細めて笑っている。こんな表情の跡部くんを見るのも初めてだ。普段は見せないその顔が綺麗すぎて、なんだか一瞬、息が止まりそうになった。

「授業中ずっときょろきょろしたり足ぶらつかせたりちっとも落ち着かねぇし」
「え…(見られてる!)」
「落ち着いたと思ったらあほな落書きしてるし」
「あ…(ひえええ)」
「声をかければみたいなクマのシャープが出てくるし」
「う…(!?)」

「ほんと、見てると退屈しねえ」


 退屈のかたまりみたいなわたしに向かって何を言ってるんだとか、何でそんなにわたしのことを見てるのとか、色んなことが頭の中でぐちゃぐちゃになって訳わかんなくなっているわたしの目の前で、クックック、と声を立てて目元を緩ませる跡部くん。
 「ちなみに、前回のも、前々回の落書きも覚えてるぜ」と白い歯を覗かせる。

「なんで…!?」

 情けないことに、混乱したわたしから出たのは、たったの三文字。なんでこの人は、この退屈とは程遠そうな跡部くんが、こんなにもわたしのことを見てるのでしょうか。
 手が震える。眉尻が下がって、きっとわたしは跡部くんとは正反対な情けない顔をしてるんだろう。
 跡部くんはそれさえもおもしろいといった表情で、悪戯っ子のような笑みを浮かべてあろうことか私の耳に口を寄せた。フッと香る、やさしい匂い。


「ばぁか、鈍いんだよ」


 至近距離で発せられた吐息混じりの低音が、一瞬で全身を駆け巡った。血が沸騰したように身体が熱くなる。
 それを見た跡部くんは、満足そうな、自信ありげな、つまりそのいわゆるいつもの跡部くんに戻っていた。

「次は隣に座れ」

 えっらそうな口調で命令しながら、大きな手でわたしの頭をぐしゃって撫でて、彼は教室を出て行った。すでに教室にはだれもいない。ひとり残されたわたしは、とりあえず頬をつねってみる。……痛い。
 状況がよく飲みこめないわたしの頭でも、ひとつだけ分かったことがある。


 さよなら、わたしの退屈



動き始めた世界

2010.07.19