私は今、名も知らぬ廃墟ビルの階段を、屋上へ向かって上っている。
それも、クラスメイトの幸村精市に手を引かれて。
廃墟というだけあって、ビルの中は荒れていた。電気が付くはずもなく、真っ暗だ。頼りになるのは幸村の懐中電灯だけだった。それでも、あたり一面に物が散乱している状況において、その一筋の光はとても弱々しく、心許ない。
「あ、そこ。俺が踏んだら崩れた。気をつけろよ」
真っ暗で足場の悪い中でも、幸村はなんてことのないという様子で平然と進んでいく。しかもその声はいささか陽気だ。
なんでこんなややこしい状況になっているかというと、なんてことはない、いつものことだ。
急に電話がかかってくるや、幸村は「今から俺の秘密基地へ行くよ」と言い、私がもちろん「行きたくない」と返事をする前に、部屋の窓がカツンと音を立てた。
カーテンをちらっとめくって外を見れば、自転車に跨った幸村がいた。外にいる幸村の口が動いたと思ったら、連動するように耳元の携帯からは「早くしろ」という声が聞こえた。
たまたま私が女友達と会話の中で「真田くんってかっこよくない?」と言っているところを幸村に聞かれてから、幸村は何かと理由をつけて私を強引に連れ出す。
「いいじゃん、真田もいるだし」と、スポーツマンのくせに色の白い顔で笑う。私がいくら「いや、わたし別に真田くんのことなんとも思ってないんですけど」と言っても通じない。最近では、あいつの耳は私の言葉が1ミリも入らないようにできているのではないかと疑っている。
この前、海に連れて行かれたときは流石にまいった。テニス部と何のつながりも持たない私は、はっきり言って不相応だった。しかも「真田がいるよ」と誘われたにも関わらず、設定が幸村の彼女だったのだ。思い出すだけでも恐ろしい。そこに居合わせた柳くんと桑原くんには「そうか君が・・・・・・よろしく頼む」と手を握られ(その間はなんだその間は)、肝心の(別に肝心でもないけど)真田くんには「部活に支障がない程度で頼む」と彼らしいといえば彼らしい要望を伝えられてしまったものだ。でも残念ながら私幸村の何でもないんで。
それでも、誘っただけあって幸村は私が浮かないようにフォローを忘れなかった。バーベキューにしろビーチバレーにしろ「こっち」と肩を叩いてくれたし、黙っていると話を振ってくれたりして、なんとかその場に馴染めたのは幸村のおかげだ。幸村って意外に気のつくやつなんだなぁと見直したような気がしないでもない。
ただその反面、テニス部の人たちに彼女設定を信じられてしまった感があって不愉快なのだけれど。幸村に言っても「なんか不満なわけ?」と取り付く島もない。不満に決まってんだろボケなんて怖くて言えるわけがないよね。
どうしてこんな女(自分で言うのは悲しいが)に幸村は構うのだろう。こいつは私のことでも好きなんだろうか。……いや、ないな。
今だって、開口一番に出た言葉が「もうちょっと飾るとかないのか。折角男に呼ばれたのに」だった。早くしろと急かされながらも、よれよれの部屋着じゃなぁと5秒で着替えたにも関わらず。洗濯から戻ってきたばかりのオレンジ色のTシャツに、ゆるっとしたシルエットのジーンズ。足元は今年買った大きなビーズがごろごろとついたサンダル。充分飾ったつもりですけど。フツー呼びつけておいてそういうこと言うか?飾るのが得意な人がいいんだったら最初から来るなってんだ。
しょっぱなから喧嘩を売ってきた幸村は、手を軽く挙げて「乗れ」と自転車を指した。文句を言う暇さえ与えずに私を自転車に乗せると、だてに運動部やってるだけはある、強靱な脚でぐんぐん自転車を漕いでいく。
こういう男女の二人乗りには、運転手に掴まる照れみたいなものがどんな少女漫画にも付き物だと思うのだが、そんなものは生死を懸けた場面においては意味がないと知った。掴まらなきゃ振り落とされて死ぬ、と切に思った。それはもう、下り坂でのもんのすごいスピードには、一瞬意識が飛びかけたくらいだ。
命辛々、超速の自転車運転に耐えていると、幸村はハンドルを左にきった。身体がブンッと引っ張られ、(落ちる!)と思った瞬間、キュッとブレーキがかかる音がした。つんのめりになった身体が遠慮なく幸村の背中に衝突する。私のかわいい鼻が幸村の肩胛骨と勢いよくこんにちは。痛い。痛すぎて声が出ない。
「大丈夫?とりあえず自転車留めるから降りて」
ちったあ私の心配でもしてよ。骨折してたら慰謝料ふんだくってやる……と喉まで出かかったが、やめた。ただもうここまで来るのに疲れすぎた。
自転車が止まったのはコンビニだった。暗闇に煌々とした明かり。電灯に集まる夜行虫が羽音を立てている。
いつの間にか幸村が隣にいて、「すぐそこだからこっからは歩いてく。ジュースでも買ってこう」と言った。相変わらずの白い顔は、暗いところでもよく映える。
コンビニの中はクーラーがよくきいていた。
幸村はアクエリアスを、私はファンタを買った。迷いなく選んだ私に、幸村は「よくそんな砂糖の塊が飲めるな」とせせら笑うように言った。はいはい。いちいち人の好みにケチをつけない。「なんだろう、ファンタ見るとイライラするんだよね」って私が知るか。
コンビニを出て、少し歩く。次第にコンビニの灯りから離れると、私と幸村は暗闇に包まれた。もう夏も終わりだというのに、あたりに立ちこめる空気は湿気をはらんでいて生暖かい。こういう日に肝試しとかやったら超怖いと思う。
なんて考えていたら、幸村の足が止まった。
「ここだよ」
幸村の言葉に顔をあげると、目の前の建物にさすがに声を失った。
「なにこれ」
「いかにも秘密基地って感じだろ?」
「いやいやいや。これはどう見ても廃墟でしょ…!」
暗くてよく見えないが、寂れた感じの漂うビル。壁にはスプレーの落書き、そして割れた窓ガラスと、静まりかえるそのビルは廃墟の名にふさわしい。
「さ、行くよ」そんな怪しいビルに躊躇う様子もなく近づいていく幸村の服を、私は急いでつかんだ。
「ちょっと!もーやめようよ。不法侵入だよこれ」
「大丈夫、これ俺のビルだし」
「は?!」
「正確には俺の祖父のなんだけどね。ほら、これが鍵」
幸村がポケットから細長いものを取り出した。それを、いつの間に準備したのだろう懐中電灯で照らしながら鍵穴につっこんで回すと、ガチャと鈍い音がして扉が開いた。…信じらんない。
呆然と立ち尽くす私の手を引いて、幸村は平気な顔でブラックホールのような闇の中へ吸い込まれた。
ああ、二度と帰って来られないかもしれない。お父さんお母さんごめん。
「このビル、買い手がつくまで好きにしていいって言われてるんだ。だからこうしてたびたび忍び込んでる」
右も左も前も後ろも見えないぐらいの暗闇の中を、か細い一本の懐中電灯の灯りを頼りに進む。かなり足場が悪い。慣れた幸村はひょいひょいと危険を回避していくが、私はそうもいかない。つまづくたび幸村を引っぱる始末。階段をたくさんのぼったところで、幸村がちょっと休憩しようと言った。あがる息。コンビニで買ったペットボトルに口をつけても、まだ治まらない。
「ねえ、どこまで行くつもり?まさか肝試ししに来たわけじゃないんでしょう」
「ああ。屋上だよ。あと5階分だ」
「ええーもうギブ!」
「おぶってあげようか」
「……いえ結構です。すみませんでした」
のろのろと立ち上がる。「ほら、手出しな」という幸村の言葉に、逆らう気力もなくその手を取った。
幸村の手は大きくて、色白な見た目とは違って硬くてごつごつしていた。それがラケットでできた肉刺だと気づくのに時間は掛からなかった。普段、あの屈強なテニス部の中にいたら細身に見えるのに、こうやって触れてみるとちゃんと男の子だ。つかまった腕も太かったし、背中も広くてたくましかった。そう意識したら、なんだか幸村に手を握られていることがむず痒く感じた。手に汗が滲んでるような気がして恥ずかしいし、ああちゃんと制汗剤のスプレーをして出てくるんだったとか、暗闇の果てしない階段を登りながら考えていた。
「着いたよ。お疲れ」
幸村が手を解いて、屋上に続く扉を開けた。ビュオォォと勢いよく吹きこんだ風が、噴き出した汗を冷やした。どれだけの階段を登ったのか、膝がガクガクしてこれ以上歩けない。屋上に出て、5歩歩くと、私はその場に倒れこんだ。
「疲れたー!」
仰向けになって両手両足を自由に広げると、目に飛び込んできたのは一面の星。まるで夜空を抱いてるみたいだ。
「綺麗だろ。ここが俺の秘密基地」
幸村も私と同じように、寝転んだ。昼間温められたコンクリートはまだ熱を持っていて、背中をじっくりと温める。
「星がごみみたいにたくさん見えるね」
「……もうちょっと言葉を選べよ。折角文系なんだからさ」
「いいじゃん。率直な感想なんだけど」
「風情が感じられない。あ、に風情を求めたのが間違いだったね」
「うっさい幸村」
あまりに失礼な物言いに、こっちに投げ出されていた幸村の左手の甲をつねってやる。不意に、幸村の笑みが消えた。急に向けられた真剣な目つきに、私はたじろいだ。
「ご、ごめん。そんなに強くつねったつもりじゃないんだけど…」
私は上半身を起こして、つねった手の甲に手を伸ばそうとした。けれど、私の手が幸村の手を掴むことはなく、逆に私の手首は幸村に捉えられていた。
「ね、なんで俺がこんなことをしてるか分かってる?」
いつもより少し低い声で、幸村は言った。幸村もゆっくり上半身を起こす。真っ直ぐこちらを見る幸村から目をそらすことができない。困るよ。そんな目で見ないで。
「し、質問の意味が分からない……」
「分からないなら言い直すよ。なんで俺が、にちょっかい出したり、電話をしたり、海に誘ったり、こうやって呼び出して秘密基地に連れてきたりしてるのか、分かってる?」
「はぁ、それはあれでしょ、私が真田くんかっこいいとか言ったから」
「ちがうよ」
私の言葉に被せるように、幸村が強い口調で言った。どんな上から目線なことを言うときも、幸村はこんなに強く言わなかった。いつもの、茶化すような穏やかな口調とは違う。本気だ。今、幸村は本気なんだ。
「全部、俺のことすきになってもらうためだよ」
胸がドクドクと音を立てた。どきんなんて可愛いもんじゃなくて、血液が全身を回る、力強い音がする。
「真田なんていうな。俺のことすきになれよ。俺が一番、お前のこと見てるんだから」
幸村の整った綺麗な顔が歪んだ瞬間、視界は真っ暗になった。幸村に抱きしめられてる…?
頬をつけた幸村の肌も、私と同じようにドクドクと波打っていた。その音が早くて、大きくて、幸村は心臓の酷使で死んじゃうんじゃないかと思ったぐらいだ。
ぎゅうと抱きしめる幸村の腕も、幸村から垂れる汗つぶも、幸村の匂いも、全部嫌じゃない。
わたしは、わたしは、わたしは―――