「、パフェ付き合ってー」
「やだ。今日も道場寄ってくから」
友人の誘いを一刀両断して、自転車のペダルに力を込める。
後ろから「けちー」「彼氏は剣道ー」だとか叫ぶ声が聞こえるが、ここはシカトを決め込んで
(けちで結構だっての!彼氏が剣道って何よ!)と心の中で呟きながらスピードを上げていく。
ゆ ら り 月 >>一
さっきのやりとりから約30分。あたしは無心で自転車をこいだ。
ここは父の親友、影山正平(かげやましょうへい)師範の道場だ。
父のよしみってことで、あたしは小さい頃からここで剣道を習っていた。
物心がついたときから竹刀を持っていて、今に至る。
師範の正平さんはそりゃあもう厳しくって。女のあたしにも手加減なんて一切しない。
この道場では男同然の扱いを受けた。(他にここに通ってる女の子がいないから仕方ないんだけど)
正平さんは泣いても絶対に許してくれないけど、あたしはそんな正平さんが小さい頃から好きだった。
道場に着くと、師範の奥さん(律子さん)が庭を掃いている。
こんにちはーと挨拶すると、
「、剣道ばっかりやってると彼氏の一人も出来ないわよ」といつものように笑われた。
実にその通りでちょっとカチンときたから、
「いつか白馬の王子さまが来るからいいんですー。ははっ!」と笑い返してみる。
それを聞いて律子さんはもっと口を大きく開けて笑った。(失礼な!)
剣道着に着替えて道場を覗くと、正平さんが稽古をつけている最中だった。
全部終わってから相手してもらおうと道場の隅に腰を下ろす。
すると生意気な小学生たちは「あー、の奴また来てるぜ!」と騒ぎだす始末。
正平さんも座っているあたしに気付いたみたいで、
「座ってるんだったらそこの小学生の相手でもしていなさい」と怒鳴られてしまった。
仕方なく防具をつけ、小学生の相手をする。
正平さんが教えているだけあって、小学生にしてもそこそこ強い。
あたしから見たら隙だらけだけど、小学生でここまで出来たらなかなかのもの。
あたしは小学生の攻撃をひらりと交わし胴を打つ。一本。
負けた小学生はチッと舌打ちして「もう一回!」と叫んだ。
(このがむしゃらに突っ込んでくるところが可愛いんだよねぇ)と微笑み、続けて相手をした。
一時間近く経ったとき、ようやく本日の練習が終わった。
小学生が帰るのを律子さんと見送ると、あたしはまた道場に戻る。
「もだいぶ手加減が上手くなりましたねぇ」
練習中には絶対に見せないような笑みを浮かべる正平さん。
年齢的にも流石にちょっと疲れたらしく休憩していた。
「この頃ずっと相手してますからね」と言って、正平さんの隣に腰を下ろす。
「最近は毎日来てますねぇ。部活が無くなっただけでそんなに暇なんですか?」
「暇です。あまりにも暇すぎるんで、毎日来ちゃってます」
あれだけ小さい頃から剣道を続けているだけあって、あたしは強い。
(自分でいうのも変な感じがするけど)
中学のときは部活に入らず道場通いに明け暮れ、
高校は全国でも剣道の強豪といわれる高校に入った。
流石に強豪と言われるだけあって、自分よりも強い人間も多かった。
でも負けず嫌いな性格からか、部活だけではなく週に何回かは道場にも通い
自分が勝てるようになるまで練習しまくった。
そして高校二年・三年と、剣道の個人戦で二年連続のインターハイ優勝を決めた。
今じゃ、うちの学校の男子剣道部の主将にだって負けない。
(男子剣道部の主将も強いんですよ。むこうもインハイ優勝経験者だから)
そんな剣道漬けの生活をしていたあたしから、急に剣道を引き離そうとしても無理がある。
部活引退後、あたしは毎日のように正平さんの道場に通っている。
「明は元気にやってます?」
「あー、かなり元気ですよ。毎日しつこいぐらい元気です」
「明は昔から“命”ですからねぇ。その髪、明に何か言われませんでしたか?」
「良く似合ってるぞって笑い飛ばされましたね」
「はは、やっぱり彼は普通の人とは少し違った感性の持ち主だ」
明(あきら)は、あたしの父。
あたしが五歳のときに、他の男を作って出て行った母親に代わって、
男手一つで(と言っても、正平さんや律子さんの世話になりながら)あたしをここまで育ててくれた。
父と正平さんは小学生の頃からずっと一緒に剣道を習っていた仲らしく、
たまに会うと必ず打ち合いをするほど。(とはいっても、断然父のほうが弱いが)
だから父はあたしが剣道ばかりやっていても文句一つ言わない。
その代わり、家事と礼儀だけは子供の頃から叩き込まれた。
母親が居ないせいか、今は料理・洗濯・掃除を当たり前のようにこなしている。
(まあ、金を稼ぐ父の仕事に比べたらラクなもんだ)
それさえやれば後は何も言われないのだから、なかなか理解のある親なのかもしれない。
今、あたしの髪は茶色っぽい金髪である。
折角部活も引退したんだし、何かしてみようと思って染めた。
明るいブラウンにするつもりだったのだが、時間を置きすぎたらしくこのありさま。
瞳の色素が薄いからか、なかなか似合ってるらしい(周りから好評!)のでそのままにしてある。
そんな娘の姿を見て、「似合っている」と笑い飛ばすような父。
(ついでにピアスの穴を開けたときも「さすが俺の娘、勇敢だな!」と感激されたのを覚えている。)
まあ、“この親あってこの子あり”ってところだろう。
そのあと二時間ほど正平さんに稽古をつけてもらって、ついでに夕食もいただいた。
(今日は親父が夜勤だから、ここで夕食食べれば自分で作らなくていいしね!)
律子さんの煮物はいつ食べても世界一だと思う。
あと少しで八時という頃、そろそろ帰ろうかと支度を始める。
「明さんが夜勤なら泊まっていきなさいよ」と律子さんに言われたけれど
そこまでお世話になるわけにはいかず、丁寧に断った。
外に出てふと見上げると、空には白く凛とした冷たい月。
(ああ、今日は満月だったんだ)
月の綺麗さにあたしはしばし見とれた。目が逸らせないぐらい綺麗な月。
ふと月から視線を落とすと、正平さん家を囲むブロック塀の上に黒猫がいた。
(どこの猫だろ。正平さんとこ、猫なんて飼ってないのに…)
そのとき、あたしの横を生暖かい風が吹き抜けた。
(何、この風…!)
そう思ったのもつかの間、さっきまで何ともなかった身体が急に重くなる。
それと同時に酷い眩暈と眠気。
膝にがくんときて、視界がぐにゃりと歪むのが分かる。
(ちょっと待って、何よこれ…)
必死に身体を起こそうとするが、思うように身体が動かない。目がぐるぐると回る。
あたしは意識を闇に手放すしかなかった。
遠くで猫の鳴き声が聞こえるような気がする…
腕時計の短針は、きっちり八を指していた。