ここにいるからこそ感じられるもの。
ゆ ら り 月 >>第二章・一
「今日はあたしの番じゃないじゃん」
折角こんなに早起きしたのにー。
井戸で顔を洗うと、は日が昇り始めて間もない空を見る。
この世界へきて早くも一週間が過ぎた。
嫌でも何でも、一週間もすればここの環境―生活に適応し始める自分の身体。
もともと家事はできるほうだったし、火のつけ方も覚えた。
そして昨日から、朝飯作りは歩と一日交代制で行うことにも決まったのだった。
いつかここにいることが当たり前になる日がくるんじゃないの、そう思いは自嘲気味に笑う。
(結構大雑把な性分だと思ってたんだけどなぁ)
いくら考えても仕方が無いということはここ一週間で分かったはずなのに、あたしは何をうじうじしてるんだろう。
もう一度井戸の冷たい水でがしがしと顔をこすると、遠くで懐かしい音が聞こえてくる。
一定の間隔で風を斬る音。現代にいたときは毎日かかさず聞いていたあの音。
は手ぬぐいで顔を拭き、音のするほうへと足を運ぶ。
どこから聞こえているのかは分からなくても、足が勝手に動いていった。
「藤堂さん」
は道場の前で木刀を持ち素振りをする藤堂を見つけた。
自分の名前を呼ばれるのを聞き、藤堂は手をとめる。
「…えーっと君は」
「です、」
「あ、そうそう。近藤先生が預かってる子だよね」
ごめんごめん、君の紹介のとき俺出かけててさ。局長が預かってる女の子が来たってことしか知らなかったんだ、
藤堂はそういうと近くに掛けてあった手ぬぐいをとり、のほうへ寄ってきた。
歩きながら、あー汗かいた、と額と首の汗を拭う。
「随分早起きなんですねー藤堂さん」
「いや、普段はそんなことないんだけど」
「しかも素振りしてるし」
「ちょっとね、身体動かしたくってさ。ちゃんも振ってみる?」
すっきりするけど、ここの木刀重いんだよなー、といいながら藤堂がに木刀を渡した。
藤堂の誘いに嬉しそうな表情を浮かべ、は木刀を受け取る。
現代では日課だった素振り。だが、ここ一週間は素振りどころか竹刀に触ることが一度もなかったのだ。
(…重っ)
やっぱりあたしは竹刀のほうが好きだなぁと心の中で思いつつも、は背筋を伸ばし構えの姿勢をとった。
そのまま軽く2、3回ほど振ってみるがどうも手に馴染まない。
(折角素振りが出来るのにこれじゃ…)
はそうだ!と手をパチンと叩くと、藤堂さんはちょっとここで待っててくださいねと言ってどこかへ走り出した。
うしろから、え、ちょっとちゃん!という藤堂の声が聞こえたが、の耳には届いていない。
「藤堂さん、お手合わせ願えませんか!」
何なのこの子、まさにそう言いたげの目で藤堂はを見た。
待ってろと言われ待っていると、どこからか竹刀を担いで現れた少女。
「ひとまず一回でいいんで!」
「えっ、ていうかその竹刀どこから…」
「これはマイ竹刀です」
「まい?」
「(おーっと)…えと自分の家から持ってきた竹刀です、別にどこかから盗んできた物じゃないんで安心してください」
「いや誰も盗んできたとは思ってないけどさ…」
「じゃあ決定ですね」
「ちょっと待って誰も決定なんて言ってな…」
折角本物の武士と手合わせできる機会を逃してたまるか!とばかりに、はその場に座り込んで、
お願いします!と頭を下げた。…土下座である。
弱ったな、と藤堂は頭を掻いた。
振ってみる?と木刀を渡しただけなのに、何故か目の前の少女は自分の竹刀を手に持ち尚且つ土下座までしている。
剣術をする女を見たのでさえ初めてのことなのに、この少女は男の自分に手合わせまでをも申し込んできた。
どうしたらいいのかわからないのも当然である。
「あのちゃん、ひとまず顔はあげて欲しいんだけどー…」
藤堂が控えめにそういうと、藤堂さんが手合わせを引き受けてくれたらあげますよという返事が返ってきただけで、は顔をあげようとはしない。
さすがの藤堂もこりゃお手上げとでもいうような声で、竹刀とってくるからここで待っててと言った。
「ちゃん、本当にやんの?」
「やります。武士に二言はありません」
「って、ちゃん武士じゃないでしょ」
とにかく十回も同じこと聞かないでくださいよ、と右足を前に出した中段の構えをしたは呆れて言った。
藤堂はそれでも嫌だなあと言いながら中段に構えた。
は竹刀を持つ手を握りなおすと、藤堂との間を少しずつつめる。
ああだこうだ言っていた藤堂もいつしか真剣な表情に変わっていた。
(この子、長い間剣術やってるな)
対峙するの―殺気とはいかないもの背後にもつ気迫は、稽古中の隊士に引けを取らない、と思った。
気合の篭った掛け声とともに二人の竹刀はぶつかり激しい鍔競り合いになった。ぐいぐいと藤堂の力に押されているのを感じると、はさっと後ろへ下がり再び構えなおす。すでに額にはにわかに汗が浮かんでいる。
藤堂の剣先が少し下がった瞬間、が一歩踏み込み面を狙うが、上手くかわされ胴を払われそうになる。しかしもそれを予測していたようで、藤堂の打ち込みはの竹刀によって受け止められた。
は竹刀がぶつかるたびに手から伝ってくる振動があまりにも懐かしく思えて、つい口元が緩んでしまう。
「……ちゃん余裕じゃん」
「そんなこと、ないです」
藤堂さんが強いから嬉しいんですよ、とまらぬ笑みを浮かべたままそういうに、それは光栄と笑顔で返す藤堂。
鍔で押し合いながら笑顔を浮かべあう二人の姿は傍から見ると異様なものだっただろう。
最初は守りの姿勢を見せていた藤堂もすこしずつ攻めに転じ始めてきた。がただの女ではなく、実力者であることを認めた証拠だろう。
もそれを藤堂の闘いぶりから感じ取り、ますます嬉しさがはずんだ。
勢いと速さのあるの攻めを藤堂が力ではじく。重さと的確さのある藤堂の攻めを器用にかわす。
「ちゃん、うちの隊士よりも強いんじゃない?」
「あたしが持てるのは竹刀だけですけど、」
「俺負けたらどうしよう」
「あたしに合わせてくれてるだけなのに何言ってんですか」
うまくて加減できてると思っていたのか、のひとことにびくりと固まる藤堂。
その一瞬を見て、がすばやく面を取ろうと動いた。
(いける!)
もしこれが現代だったら。審判の旗は上がり、「一本!」の声が高々と響いたことだろう。
が、ここは幕末。相手は志士。
の竹刀をさっと避けた藤堂の竹刀が先に、気付いた時にはの頭に当たる寸前で止まっていた。
大きく見開かれるの目。汗ばんだ背中を、熱くなった汗がひたりと流れたような気がした。
スピードも技術もまるで違う目の前の相手に、は恐怖すらを覚える。
「今の踏み込み、てっきり本当の斬り合いだと思っちゃったよ」
竹刀でよかった、それだけいうと藤堂は置いておいた木刀と手ぬぐいを拾い去っていった。
藤堂が去ったその場に、は竹刀を握り締め呆然と立ちすくんでいた。
ここ最近、これだけ自分との力の差を感じた相手はいなかったのだ。
負けたこと、手加減されたこと、すべての悔しさが心の中で混ざり合いどろどろと吹き上がる。
(絶対に倒してやる)
は久しぶりに湧き上がった闘争心に、にやりとまた笑みが浮かんだ。
持っていた竹刀を構えて素振りをしながら、は藤堂に勝つ方法をあれこれを考え始める。
(ここにいることであたしはもっと強くなる)