あたしをこの世界に飛ばして楽しんでいるのは誰だ。
一生かけて恨んでやる。





ゆ ら り 月   >>第三章・二





「精が出ますね、さん」

疲労困憊、全身から染み出る疲労の色を隠す余裕もないに、沖田が苦笑いを浮かべながら微笑んだ。

声を掛けられたあたしはというと、縁側に長い四肢を投げ出して仰向けに寝そべっている。右手に、先ほど掃除中に拾った持ち主不明の、大きな手形がドンと押された団扇を握って、自分の顔を力なく仰いでいるところだ。
今は、朝から怒涛のように押し寄せる仕事(と雑用)がひと段落ついたところで。お願いだれも近寄って来ないで、というあたしのささやかな願いはいとも簡単にぶち壊されてしまった。
汗はとめどなく流れてくるし、未だに呼吸は荒いし。寝そべってるというか、倒れてるって言ったほうが正しいと思うよほんとに。あー、しんどいよう。


「沖田さんも何か用ですか」

洗濯?裁縫?それとも肩揉みですか、と眉間に皺を寄せながら身体を起こそうとするあたしの手から沖田さんは団扇をすっと抜いて、ぱたぱたと仰いでくれた。
極めつけの、「私は別に用はないので、もうちょっと休んでいてください」という優しい声。
団扇の動きに合わせて前髪がふわふわと揺れるのが見える。


「あーきもちいい……。沖田さん、もっともっと」
「はいはい、朝から随分忙しそうでしたね。ご苦労様です」
「さすがに、ここの仕事一人でこなすのはきついよ…」


どうしてまたあたしがこんなになってるかというと、ここのところ、歩さんの外出が増えてきていることに理由がある。今日も朝早くに出かけ、今夜は帰れないかもしれないと心底申し訳ないという表情をした歩さんに告げられた。
あたしには外出の理由が分からないけれど、それとなく聞いても上手くはぐらかされてしまうことに気付いて以来、深追いすることはやめた。
永倉さんたちと甘味処に出かけた後ほどなく自分を監視する視線が消えたこともあって、今のところ一応あたしは信用してもらえたのだと思っている。下手な深追いをすれば、自分の立場を危うくすることになり兼ねない。わざわざ余計な疑いを引き起こすような事態はなんとしても避けたいところ。


それにしても。歩さんってすごい。やってみて初めて、歩さんの存在の大きさに気付いたよ。
これまであたしが受け持っていたのは、仕事全体の多分3分の1、下手をすると4分の1……ぐらいだ。
掃除、洗濯、食事作りと一通りの仕事をこなすスキルは身につけたと思っていたけれど、普段は歩さんが気を遣って「じゃあちゃんは洗濯をお願い、うちは掃除して買い物行ってくるわ」と仕事を分担してくれていたということに気付いた。歩さんのいない今日は、朝からいつもの何倍もせわしなく動き回っている。(動き回らざるをえないというか)

それに、いままでは気付かなかったが案外雑用が多い。何かあるごとに隊士が呼びつけてくれる。今日も、

「今日もしかして歩さんいない?隊服破れちゃってさ、夕方の見回りまでに直してもらいたかったんだけど、ちゃんに頼める?」
「分かりました、そこに置いといてください」

ちゃん!この手ぬぐい洗濯よろしく」
「はーい」

「ちょっと!道場でケガしたやついるんだけど手当してやって」
「はいはい」

「あのさー、お腹痛いんだけど薬とかある?」
「救急箱に入ってたと思いますけど」
「救急箱ってどこにあんの」
「(……こいつ私より長くここにいるだろ)あ〜…、じゃ後で出します」

といった感じで、隊士の雑用の度に仕事が中断されて洗濯ひとつ片付かない。歩さんはあたしに気付かれずにこうした雑用を全部こなしていたなんて、もう尊敬としか言えないし、一生頭が上がんないと思う。

だって、あたしだったら、これ以上なにか押し付けられたら多分「自分でやれよ!」ってキレるもん……。


「歩さんってほんとにすごい人です。あんな雑用全部やりながら食事の準備とかもきっちりできるなんて、尊敬、としか言えませんよ。あたしには無理ッ…!」
「いやいや、そう言いつつもひとつひとつ丁寧に相手しているあなたがすごいですよ。歩さんはああ見えて手の抜き方を知ってますから、よく『そないなこと自分でできるやろ!』と突き放してますし」
「え、本当ですか!?」
「ええ。隊士たちはあまりにさんが構ってくれるので、嬉しくなってわざと雑用を言いつけてるんだと思いますよ」
「はぁ!?じゃあ最初から『自分でやれよ!』って言い返してもよかったってことですか…?」
「まあ、そういうことになりますね」


(最初からキレてればよかった……)
沖田の言葉に、は疲労が一気に重くなったように感じて溜め息をついた。沖田は面白がっているようにカラカラ笑っている。


「そんな頑張るさんに朗報をあげましょう」
「へ?」
「着物が仕上がったから後で取りに行くぞ、土方さんからの伝言です。どうです、少しは元気が出ましたか」

そんなことは聞くまでもなく、疲れの隠せなかったの表情が瞬く間に明るくなり、「うわーい!」という大きな声と同時に、グーに握った拳のついた腕を真っ直ぐ空に伸ばした。素直に喜びを表現するの様子に、沖田は目を細めた。

(かわいい人だ、全く)







結局、と土方が呉服屋の暖簾をくぐったのは日もとっぷり暮れた頃で、店先の淡い提灯のだいだい色が街を温めている。

(きれいきれいきれい!こんな優しい夜景、初めてだ!)

あたしは「すごいすごい!」とはしゃいで、着物が着崩れないように控えめにスキップをする。新しい着物に、きれいな夜景に、監視の視線のない開放感。ここでスキップしないでどこでするよ。これではしゃぐななんて鬼だ。
道往く人たちが若干冷たい目で見ているけれど、そんなことは全く気にならない。
(「年頃の娘がはしたない」とか、聞こえてるっつーの)


スキップにつられ、振動で提灯がゆらゆらと不安的に揺れ動く。


「おい、ふらふらしてんじゃねえ。提灯の火が消えちまうだろーが」

土方の制止も、出来上がった着物と初めて見る幻想的な夜景に浮かれるの耳には届いておらず、土方はただ呆れた表情で目の前の提灯を持ちながら跳びはねる少女を見た。


「さっきまでは死んだような顔だったのにな」
「現金なんです、あたし」
「自分で言うか。それよりもなんだその変な踊りは」
「へ、これスキップですけど……へ、変な踊りって…ぷはっ、おっかしー!」


心底おかしいとでもいうようにケラケラと腹を抱える
すきっぷとは何だという疑問が頭を悩ませながらも、そのの感情を偽らない素直な姿と濁りのない目に、(これでいい)と土方は自分の決断を再確認した。その決断が、を信用するというものであることはもはや言うまでもない。

先を歩くの背中に向かって、土方は小さく呟く。
「俺たちを裏切ってくれるなよ、




(今、って聞こえたような)
振り向いて、土方に向かって問いかける。

「土方さん、今って言いました?」
「あ?ああ」


(……初めてだ)

足を止めたに土方が追いつく。それがどうかしたのか、との顔を覗き込むと、そこには心なしか潤っているような大きな瞳。その瞳は真っ直ぐに土方の顔を捉えた。


「ひ、土方さんが初めてあたしの名前を呼んでくれた」

こ、こんなに嬉しいなんて思わなかった。所詮名前、されど名前。故意か無意識かどうかは分からなかったけれど、これまで土方さんがあたしを名前で呼ぶことはなかった。時々そのことに気付く時、あたしは認められていないと疎外感を感じずにはいられなくて。
それが、今。たった今、土方さんの口からあたしの名前を呼ぶ声が。

(認めてくれたと思ってもいいよね?)


「はー聞き逃さなくてよかったぁ」
「呼んだことなかったか?」
「ないです。絶対。今、今初めて呼んでくれました」
「……それは良かったな(名前ぐらいでなんでそんなに嬉しそうな顔すんだこいつ)」



「ありがとう土方さん」
「あ?何に対する礼だ」
「分かんないけど、なんとなく言いたくなったから」


ここに居場所を作ってくれてありがとう。着物買ってくれてありがとう。名前を呼んでくれてありがとう。あたしを信じてくれてありがとう。


「さあ帰るぜ。――俺たちを裏切ってくれるなよ、


歩を進めた土方の言葉は、今度はの耳にもしっかりと届いた。
それは脅迫めいたものではなく、ただひたすらに平穏を求める静かな願い。伝える声はとても優しい。


(あたしも、土方さんのために、新選組のために何かしたい。この身ひとつで、あたしに何ができるだろう?)




その時――あたしが土方さんの横に並んで再び歩き出そうとしたその時、ビュォォォォと大きな音を立てた突風が通りを吹き抜けた。その瞬間、自分の頭がぐんと軽くなる。

「……ッやばッ!」

反射的に頭に手をやると、そこには椿油で固めた髪の感触ではなく、さらさらがウリの地毛に触れる。顔に掛かる金髪。

隣の土方さんも異変に気付いたようで、懐から手ぬぐいを投げ寄こし、「とにかく明かりのない通りまで急ぐぞ」とあたしの手を掴んで歩き出した。
あたしは広げた手ぬぐいを頭にかぶせて、小走りで必死に土方さんについていく。

(ヅラを飛ばされたおじさんの焦る気持ちが痛いほど分かるわ……)





何度か道を折れてたどり着いたのは川原だった。川原は暗く人気もなくただ月の明かりだけが照らしていて、街の明かりは遠くに見える。

「土方さん、これなんていう川?」
「鴨川だよ。――ところでお前、ここから屯所までの帰り道分かるか」
「分かるわけないじゃないですか。屯所から出るの、まだ3回目なんですよ」
「……そうか。じゃあ仕方ねぇ」

「手を出せ」という土方の声には幾分緊張のようなものが滲んでいて、は戸惑いながらも手を差し出した。
土方がもぞっと動いたかと思うと、あたしは手の上にずしっとした重みを感じる。
これは…

「か、刀!?」
「脇差だ。脇差にしてはちったあ長ぇが、抜けるだろ」

は、ちょっ、なんであたしこんな物騒な物渡されてんの!?
土方さんは冷静で、手元の提灯の火を息を吹きかけて消した。一気にあたりが暗くなって、土方さんの表情さえよく見えない。漠然とした不安があたしの中に充満する。

「話しが見えませんって、土方さん!」
「うるせえ騒ぐな。――つけられた。相手は2、いや3か…チッ、油断したぜ」
「……つけられたって、誰にっ」
「そりゃあ俺かお前が気に入らねえヤツだろ」

ああ、なんて事だ。自分のことに必死で、つけられてることに全く気付きもしなかった。
土方さんは気付いていたから、細い路地から抜け出してわざわざ広い川原まで足を運んだんだ。

「とにかく、それと着物を持ってあっちの茂みに隠れてろ。それでどうしようもなくなったら刀を抜け」
「でもっ…!」
「総司も言ってただろ、ここでは自分の身は自分で守るしかないんだ。ごちゃごちゃ言ってねえで――」



「壬生狼は異人の世話もしちょるんか。尊皇攘夷が聞いて呆れるのう、土方歳三」



訛りの混じった声に振り向くと、暗闇の中でゆらっと人影が動いた。
数は土方さんの言ったとおり、3。すでに刀は抜かれていて、月光が刃を不気味に照らしている。
自然と身体が震え出す。(怖い…!)


「悪い、逃げる時間はなさそうだ。いいか、刀を抜く時は柄と鞘をしっかり持って真っ直ぐに引き抜け。鞘は投げ捨てていい。てきとうに凌ぎながら一瞬の隙を突いて茂みに飛び込むんだ」
「無理だよ!そんな…あたし人なんて斬れない!!」
「ここで死にたくなけりゃ抜け。隊士じゃないお前に殺れなんて言わねえが、逃げる隙ぐらいでてめえで作れ」


の悲鳴に、土方の怒声がかぶさる。押し殺したような低い声でありながらも全身を貫くような迫力。全身が凍りついたように動かない。

(あたしの大すきな剣道で、人を傷つけるの?自分の身を守るために、人を傷つけるの?
そんなこと……したくない、できるわけが、ない!)

手に握られた脇差が、何倍もの重さに感じられた。腕がちぎれそうなほど重い。




「俺だってお前にこんなことさせたくないさ。――でも、迷ってる時間はねえぞ」


土方が鯉口を切った。



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2009.08.28