ピアノから逃げないと決めた。
逆風にも立ち向かうと決めた。
――ついに、始まりの鐘が鳴った。
ep.1 揺れるタクシーの中で
ピンポーン
家のチャイムが鳴ったのは、予定していた時刻ちょうどだった。
来客を映すモニターには、今時珍しい丸眼鏡を掛ける見知った顔。今日はスーツを着込み、いつも以上に大人っぽさを増している。肩まで伸びている黒髪も後ろで一つにまとめられており、鼻筋の通った顔立ちが露わになっている。清潔感も申し分ない。
「行ってくるよ」
はピアノの蓋を閉め、立ち上がった。ドレスに合わせて選んだクラッチバッグを掴むと、振り返ることなく玄関でミュールを履いた。
「……行ってくるよ、お父さん、お母さん」
もう一度呟いたの言葉に、当然ながら返事はなかった。シンと静まり返る部屋には、鍵を掛ける音がいやに大きく響いた。
「おはようさん」
「おはよう、侑士」
「準備はええ?」という忍足の問いに、は「ええ」と短く答える。
エレベーターでマンションの一階まで降りると、入り口の自動ドアの前に一台のタクシーが停車していた。は、忍足が乗ってきたものだと容易に推測できた。
たちが近づくと、タクシーのドアが大した音も立てずに開いた。はドレスのスカートをクイと持ち上げながら乗り込む。その横に忍足が乗り込むと、車は停車の終わりを告げる右ウィンカーを出して、ゆっくりと走り出した。少しずつスピードが上がり、やがて街を行く車に混じってゆく。
「ドレス着るだけで随分大人っぽく見えるんやな。一瞬、部屋間違うたかと思ったわ」
「あら。おんなじ台詞を返していい?」
「よう似合っとるで」
「なんでだろう、侑士に言われると社交辞令くさく聞こえるのは」
の言葉に、「一応心から思ってんけど」と忍足は苦笑する。「損な性格ね」とも同じように笑った。
「そうゆう恰好、慣れてるん?車に乗り込む姿が様になっとったけど」
「まさか。初めてよ」
実際、ドレスを着るのはコンクールぐらいであったし、大抵は控え室で着替えていたため、こうやってドレスで出歩くことはにとって初めての経験だ。
「このドレス、貰い物なの。下手に座ると破れるんじゃないかとか、汚すんじゃないかとか、内心びくびくしてる。大事すぎて着て歩くのが怖いわ」
ブルーのドレスは、先日招待状と一緒に届いたものだ。それは送り手の気遣いが感じられる一品だった。身に纏うと若干の緩みを感じたものの、ホルターネックのリボンがしっかりしていて、ずり落ちる心配はない。さらに、裾が少し広がっていて、の痩せた身体をうまくカバーしている。
胸元に飾られた小さなバラのコサージュと散りばめられたフワロフスキーは、シンプルなドレスに彩りを添えている。柔らかな手触りと艶のある生地は、おそらくシルクだ。「小娘へのプレゼントに一体いくら使ってるんだ」とが溜め息をついていたのをは思い出した。
車は、抜き抜かれつのスピードで大通りをゆく。土曜の夕方ということもあって、交通量は多い。窓の外に目をやると、街を歩く人々で賑わっている様子が目に入ってくる。ショーウインドウに立ち止まったり、オープンカフェでおしゃべりに夢中だったり、恋人と手をつないで歩いていたり。
は、ほどよい振動に揺られながら、街ゆく人々の過ごす休日の一時をぼんやりと眺めた。その窓の外へ意識を向けるの横顔を追っていた忍足の目は、ふとの指がこめかみを押さえる仕草を見逃さなかった。
「頭痛いん?」
は外に向いていた意識を車内に戻して忍足を見る。の視線を受け止めると、忍足は「こめかみ押さえとるやろ」と言った。
「……ああ」
「なんや無意識か」
「そうみたい。よく見てるのね」
は、左右のこめかみに人差し指を当てると、もう一度指圧する。ここのところ続いている、ぼんやりと頭が重い感覚。頭痛というほど痛みはしないが、かといってすっきりしているわけでもない。ただ、ここ数日間、睡眠時間をピアノの練習に充てていたことも事実であるので、は疲れからくるものだろうと結論づけていた。自分が招いた結果である以上騒ぐつもりは毛頭なかったが、この男には気づかれてしまった。
「そういや、顔色もあんまよくないな。目の下にはクマを飼ってるみたいやし。ちゃんと眠れとる?」
すべてを見透かしたような鋭い眼差し。は、一挙一動を観察されているような気分で少々不快だった。忍足と接することには慣れつつあるだが、こういうところはまだ怖い。は肯定も否定もせず、曖昧に笑った。その笑み込められた、これ以上干渉しないでという線引きに、敏感な忍足が気づかないわけがない。忍足は困ったような表情を浮かべた。
「そんな怯えさすつもりないねんけど」
忍足はの瞳を見ながら、ゆっくり口を開いた。
「昔から周りの人間の表情を読んで、期待に添えるよう合わせてきたからな。他人の表情とか仕草に敏感なんやと思う。にとっては怖いかもしれんけど、堪忍な」
話す忍足の笑みには、どこか寂しさが陰を落としているようだった。堪忍な、という一言には、"そういうふうにしか生きられない”という諦めが込められていた。
「侑士は強いね」
「そうか?都合が悪くなるとすぐ逃げるし、ごまかすし、心閉ざすし、ろくな男やないで」
「そうやって認めることも、諦めることも、なかなかできないことよ」
「……」
「できれば、わたしもそうなりたいと思ってる」
ピアノと向き合い、改めてピアノを弾かずには生きられないという自分に辿りついた。弾きたくて身体が疼くことを知った。そんな自分を、認めてあげたい。ーー口には出す勇気はなかったが、は心の中でそう唱えた。
「、手ぇ出し」
言われるがままに差し出したの手を、忍足はそっと両手で包んだ。は驚いて忍足の顔を見る。忍足はを診察するように、言葉を続けた。
「冷たいな。それに震えもある。ひどく緊張しとる……そんなにパーティーが不安か?」
優しく問いかける忍足を、はもう怖がらなかった。
「うん…でも、今日は正念場なの」
「正念場?」
「甘ったれな自分を変えるために、この先がいい方向へ進むように頑張らなくちゃいけない日だと思う」
どうして跡部の誕生日パーティーが自身を変えるきっかけになるのか、忍足はの言葉の意味を推し量りかねた。それでも、その言葉はまるでが自分自身に言い聞かせるような色があり、はっきり口に出したからは覚悟めいたものを感じる。
忍足は「無理だけはしたらあかんよ」と、の手を温めるように握った。
タクシーがゆっくりと速度を緩め、屋敷と呼ぶのがふさわしいような家の前に停車した。
「お代は先に頂いておりますので結構ですよ」と、忍足が財布に手を伸ばすより先に運転手が言った。
がお礼を言って車を降りようとすると、先に降りた忍足が手を差し出した。
「お手をどうぞ、お姫さま」
なんてな、と付け足して忍足が笑う。くやしいことに、そんな冗談が似合ってしまう家なのだ。はフッと笑い、忍足の手をとった。
門をくぐって、きれいに手入れを施された西洋風の庭を二人は歩きだした。少し早く到着したこともあって、庭はとても閑静だった。
(そうだ、こんな庭だった)
は目の前に広がる景色を、遠い記憶と結びつけるように眺めた。すでにほとんどが白く霞んでしまった記憶だが、この静けさや色、空気には覚えがある。は確かめるように、一歩一歩足を進めていく。
「珍しいな」
隣を歩く忍足の声に、は顔を上げた。
「跡部の家に初めて来た人間の反応っちゅーのは、「すげー」ってはしゃぐか、驚きすぎて立ちすくむかのどっちかなんやけど、はどっちでもないねんな。こういう家は見慣れてるん?」
見慣れているわけじゃないが、実は初めてきたわけでもないは、返答に悩んだ。初めて来たときがどうだったかという記憶もない。
「まあね」とはっきりしない返事になった。
「侑士は毎年招待されているの?」
「招待って、跡部のパーティーのことか?」
「うん」
「そやなぁ、中等部入って跡部と知り合ってからは毎年呼んでもらっとるな。岳人とか他のやつらも同じや」
「みんな跡部くんとの出会いは中等部なのかしら」
「そや。跡部は中等部から氷帝で、それまではイギリスにおってな。樺地だけはそのときからの付き合いで、跡部自身かなり信頼しとるみたいや」
忍足は、跡部が中等部三年間テニス部の部長に君臨し続けたことなどを歩きながらつらつらと話した。は忍足の話に耳を傾けながら、ずっと頂点に立ち続ける跡部の孤独に思いを馳せた。
「きっと疲れるでしょうね」、の口からこぼれた呟きに忍足が目を細めた。その、痛みをこらえるような表情は、前を向いていたが知ることはない。
「ひとつ、言っておきたいことがあんねん。聞いてくれるか」
忍足の声色が変わった。ただでさえ低い声が、押し潰したようにより低くなった。その音を聞き漏らすまいとは耳に意識を集中させる。
「の察する通り、トップに立ち続ける跡部にかかるプレッシャーは凄まじい。見てるこっちが苦しくなるぐらい、よく耐えとる」
は数日前の新人戦で戦う跡部を思い起こした。孤独を背負う、小さな背中。
「けど、あいつも所詮人間や。限界がある。そのときどうなるかは場合によるし何とも言えんけど、一度崩れると立ち直るまでにちぃと時間がかかんねん」
忍足は一度言葉を切った。の顔をしっかりと見据えて、小さく息を吸った。
「もこれから跡部と関わっていけば、少なからずそういう時が来るっちゅーことを頭の片隅に入れといて欲しいんや」
忍足の真剣な目に、はただ頷いた。立ち直るまでに時間がかかることを、それがいかに困難であるかということを、はだれよりも知っている。
ほな行こか、という声を合図に歩き出した二人は、やがて玄関に行き着いた。
(こっちに行くと中庭。反対に進めば景介さんのバラ園。ああ、思い出してきた……)
玄関の前で足を止めたは、懐かしみながら辺りを眺める。その様子を見ていた忍足が、扉の取っ手をつかんでを呼ぼうとした瞬間、
「」
その場に別の声が響いた。柔らかく耳辺りのよい、少し高めのテノール。
と忍足が振り向いた先にいたのは、どちらにも見覚えのある人物だった。
「跡部の…」
「景介さん」
の口からすらりと発せられた名前に、忍足は目を見開いた。今、自分ですら年に一度のパーティーでしか面識のない跡部の父親が、自分たちの同級生を「」と呼び、は迷いなく「景介さん」と呼んだ。全く予期しなかった展開に、忍足は困惑した。表面上は得意のポーカーフェイスを装いながらも、内心は処理できない疑問を募らせていく。
そんな忍足の動揺を知ってか知らずか、ブラックスーツに身を包んだ男性――跡部景介は忍足に向き直り、口を開いた。
「忍足君、今日は息子のために足を運んでくれて有り難う。申し訳ないが、少しの間彼女を貸してもらえないだろうか」
景介の穏やかな表情の中に、断れない雰囲気を察知した忍足は、ちらりとの顔を見遣る。そして、特に怯える様子もないを確認すると、「ほな、またあとでな」と扉を開けて屋敷の中へ入って行った。
重厚な扉がガタンと閉まった。庭と同様にひっそりと静かな室内。
「……跡部は知ってんやろか」
扉の向こう側にたたずむ二人には届かない呟きが、忍足の口から漏れた。