蓮。
あなたの娘の着実な成長を見守るのが、どうして私なのだろう。
時々、私はそれが悔しくてたまらなくなる。
ep.2 ほどける過去
忍足が屋敷の中に入っていくのを見送ると、と景介の足は自然とバラ園へ向いた。バラ園は、日常のほとんどのことを執事に任せている景介が、唯一人の手の介入を嫌う場所だ。もともとは、景介の妻のものであったが、彼女が病気でこの世を去って以来、景介が引き継いで世話をしている。長期の出張時以外は、極力自身の手で手入れをする。の父親である蓮も、このバラ園をいたく気に入っていた。
「がこの家に足を運ぶのは、何年振りかな」
「たしか……最後に来たのは、わたしたちがフランスへ引っ越す前でした。もう6年ぐらい経ちます」
「6年。そうか、も景吾も大きくなるわけだ」
バラのアーチには、深紅のバラたちが大輪をつけていた。その下を、慣れないヒールを履いたに合わせるように、穏やかな歩調で進む。
は、肺に大きく息を吸い込み、体を包むバラの甘い香りを確かめながら歩いていく。
「そういえば、昨日太郎から電話があってね。景吾と同じクラスになったんだってね」
「はい」
「懐かしいなぁ。私と蓮の高等部時代を思い出すよ。まさか、自分たちの息子と娘までが同じクラスになるなんで、想像もしてなかった」
景介が微笑む。
アーチを抜けると、色鮮やかな無数のバラが目前に広がった。赤、ピンク、オレンジ、白、黄色――それぞれの色に濃淡があり、形も違っている。バラの生け垣が庭を円状に囲っているなんとも贅沢な空間だ。
その中心には、西洋風なドーム型の屋根がついた、吹き抜けの休息所。木のテーブルと椅子があり、も何度かここでティータイムを過ごしたことがある。今も、テーブルの上には二人分のティーセットが用意されていた。
景介はをいすへと促すと、自分は向かい合うように座る。そして白磁のティーポットを持ち上げて、紅茶をゆっくりと注いでいく。こぽこぽと音を立てながら、2つのティーカップは瞬く間に茶色く澄んだ色に染まった。スライスしたレモンを一枚浮かべると、片方がに差し出された。
「あまりのんびりしていると景吾に怒られてしまいそうだが、少しぐらいはいいだろう。気温の下がる秋は、バラが一層色鮮やかに咲くのを知っているかい。特に赤系の品種は深いビロードのようだし、オレンジ系の品種は燃え立つ炎のように鮮やかだ。今年は咲きが良いから、にも味わってもらいたくてね」
お茶まで用意してしまったよ、と目元を緩めて笑う景介を見て、もつられて微笑む。
跡部景吾の色素の薄い髪も、ロイヤルブルーの瞳も、漂う気品もすべて景介の譲りだ。は、この前跡部君の瞳を見て懐かしく感じたのはこれだ、と納得した。
は一口紅茶を啜ると、景介と向き合った。
「あの、景介さん……事故の後、何から何まで本当にありがとうございました。こんな素敵なドレスまで頂いてしまって、申し訳ないです」
あの事故の後、景介は様々な場面でとを支えた。有名ピアニストの死ということで騒ぎ群がるマスコミを押さえたり、混乱するが休養できる環境を整えたりと、どこよりもだれよりも迅速に動いていた。
「景介さんだって友人を亡くして悲しい時だったはずなのに……。数え切れないほどお見舞いに来てくださっても、わたしはただ泣いて喚くばかりで……。今日だって、わざわざわたしに弾く機会を下さって……」
が頭をぐっと下げると、その頭を大きな手が撫でた。
「私は、あなたがこうして笑ってるだけで充分だ。きっと蓮もそう思っている」
だから顔をおあげなさい。
「本当に、ありがとうございます」
甘いテノールの声に導かれるようにがゆるゆると顔を上げると、そこには変わらない景介の微笑があった。
「体調はどうだい?ドレスは少し緩そうだが」
「今はだいぶ良いです。日本の気候にも慣れましたし。体重も少しずつ戻ってきています」
「そうか…何事も少しずつがちょうどよい。 学校は楽しい?」
「んっと、、まだ緊張することも多いけど、楽しいです」
「困ったら景吾に相談しなさい、と言いたいところだけど、見た目に反して脆くてね。頼りにならないかも……なんて、私が言ってはだめだね」
景介の視線がふとからはずれ、遠くを見た。
「わたしには…なんというか……脆いというよりも、容量以上のことを抱え込んで自滅してるように見えます。それに跡部君が何でもこなしてしまうから、周りも必要以上に頼ってるようにも」
の脳裏には、先日の新人戦での様子がくっきりと焼きついている。期待やプレッシャー、プライドを乗せた孤独な背中。本人たちには言えない正直な所感を、は漏らした。
「まさにその通りだよ」と景介は苦笑しながら、カップを口に運ぶ。
「私自身、小さい頃から父親に『跡取り』として教育されてきて、いつももっと気楽に生きたいと思っていた。だから、景吾には好きなものを選んで、好きなように生きて欲しい。彼が楽しくいられれば、テニスプレイヤーだってなんだっていい。……そう思っているのに、彼はこの家に使命感みたいなものを感じているらしい」
「なかなか、難しいね」と、かすかに聞こえる小さな溜め息をついた。
「きちんと話したほうがいいです。この家にいて、氷帝で頂点に立っていて、こんな誕生日パーティーがあって、大きな会社を経営する父親がいたら、誰だって気負います」
「は、気負っていた?」
「え」
「ピアニストになると。父親がプレッシャーだった?」
景介の真っ直ぐな言葉には動きを止め、視線をカップに落とした。マスカラで伸びた睫が、瞬きするたびに影を落とす。
その表情を景介がじっと見つめている。
「わたしはただ無知でした。父親と同じようにピアニストになるのだと疑ったこともなかった。でも、父がいなくなって、何のために弾いていたのか分からなくなって、ピアノを捨てようと思ったんです。弾くことが怖くて、捨てられると思いました」
「うん」
「でも、弾かずにはいられなかった。その時、初めて『ああ、わたしはこんなにもピアノがすきだったんだなあ』って思いました。正直、ピアニストとして生きたいかは分かりません。まだ、考えたくないです」
の紡いだ言葉を受け止めた景介は、心の中でもういない親友に思いを馳せた。
(蓮、あなたの娘は、正直に美しく生きているよ)
***
コンコン
「様がご到着になりました」
が広い屋敷の中を使用人の女性についていくと、ある一室に通された。その部屋にはすでに見慣れた顔触れが揃っていて、安堵と緊張が入り混じった微妙な心境。
いつものテニス部の面々は、部屋の中心のテーブルを囲うソファで寛いでいた。ここにいるのは、本日の主役である跡部に、忍足、向日、宍戸、芥川、滝、樺地、鳳、日吉の9人だ。普段はゆるく制服を着崩している彼らも、今日はびしっとスーツを着込んでいる。綺麗な顔立ちがより引き締まって見えた。
「がドレス着てる!かっわE!」
「おいジロー、ぴょんぴょんすんな。スーツ皺んなるぞ」
を見て飛び跳ねるジローを宍戸がたしなめる。その表情には真剣味よりも、「一応言ってやったからな、でもお前聞く気ねえだろ」という諦めを感じる。宍戸の思っている通り、ジローはにダッと駆け寄った。
「あれ、なんか緊張してる?」というジローの声を聞こえない振りをして、は部屋の中心に近づいた。
「今日はお招きいただきありがとうございます。跡部くん誕生日おめでとう」
と挨拶を交わしながら、プレゼント――「あの人疲れてそうだしチョコにしなよ」というのアドバイスをもとに、デパートをうろうろしながら買ったちょっと値の張るチョコレートの詰め合わせ――を手渡した。
店頭のディスプレイで宝石のように艶やかに光る一粒一粒を見て、心魅かれてしまった一品である。もらったドレスには遠く及ばないが、的にはかなり奮発したところだ。まあこの家では日常的に出てきてもおかしくないからこわい。
「わっ、GODIVAだ。いいな、跡部、一個ちょうだい」
「あほか、なんで早速てめえにやんなきゃなんねーんだよ。散れ」
紙袋を覗き込む向日を「しっしっ」と跡部は面倒くさそうに追い払う。
「かけろよ」
ちぇっ、と引き下がる向日を後目に、跡部はにソファに座るよう進めた。
「は俺の親父のことを知っているんだってな」
この部屋に入って、忍足が開口一番に放った「なんや、とお前の親父さん知り合いなんか」という一言。まさに寝耳に水とはこのことだ。父親からのことなど聞いたことがない、というよりも、もう長いことまともな会話をしていない。それぞれが自分のことに夢中で、ゆっくり向き合う時間を作ってこなかったというほうが正しい。だいたい、向き合ったところで共有する話題などないと跡部は思う。
それでも、自分の知り合いがなぜか父親のことを知っていたとなれば、多少気になる。どこで知り合い、どんな関係か。人並みの興味だろう。
は、ドレスのプリーツを気にしながらソファにかけると、
「景介さんは、わたしの父の友人。高等部で同じクラスになってから、ずっと親交があると聞いてる」
と答えた。「それにしても、いい雰囲気やったけど」と忍足が口を挟むと、は「そんなことないよ」と苦笑する。
「小さい頃から、父と一緒に会ってたから顔見知りなの。ついでに言うと、太郎さんは父の後輩よ」
「の親父さんってすげーんだな」と、そこにいたみんなの頭に浮かんだことを宍戸が代弁した。跡部は気になっていたことをに聞く。
「じゃあ、お前は俺のことも知ってたのか?」
「というと?」
「俺は、うちの親父とお前の親父が知り合いだったと今知った。だから当然お前のことも知らない。でもはうちの親父のことを知ってたんだろ。同い年の息子がいるってことも知ってたのか?」
「知ってたけど、それがあなただと繋がったのはこの間パーティーの招待状を貰った時よ。数日前に景介さんからも同じ封筒が届いていたから」
「……親父とは会っても、俺とは会ったことがねえんだな」
「正確には会ったことあるはず。3歳かそれ以前に。わたしはその後も何度かこの家を父と訪れているけど、あなたはイギリスにいたんでしょう」
忍足はの言葉に、が跡部のお屋敷を見ても驚きもしなかったことを思い出した。
「それで、親父とは何を話したんだ」
「体調はどうだとか、学校は楽しいかとかそんなところ。あ、あとあなたの話も」
「…俺の話って」
跡部が眉間に皺を寄せてに問い返そうとした時、タイミングを計ったようにノックの音がして、「パーティーの準備が整いました。皆様、会場へどうぞ」
という執事の声が届いた。