ピアノを弾くこと
これがわたしの存在意義だって胸をはっていきたい






      ep.3 張りつめた糸のような





「本日は、僕の誕生パーティーにお越しいただき……」


ステージ上で来場者への挨拶を述べる跡部の姿を、パーティー会場の後方では見つめていた。
今日はビュッフェ形式の立食パーティーであり、各々が好きな場所に集まっている。会場は多少ざわつきながらも、飲み物の入ったグラスを片手に跡部のスピーチへ耳を傾けていた。


「この挨拶、毎年見てるけどさ、一年のうちで一番跡部のことを同級生だと思えない瞬間だな」
「ああ。似合ってんだけど、なんつーか違和感があるよな」


向日と宍戸は、顔を見合わせながら言う。その表情は誕生日会には相応しくないほど暗い。が視線をすっと彷徨わせると、忍足は無表情で手に持ったグラスへ目を向けていたし、滝も芥川も目を伏せていた。同級生たちの態度は、顔を上げ跡部へ視線を送る後輩たちとは随分違う。


「景吾には好きなものを選んで、好きなように生きて欲しい。彼が楽しくいられれば、テニスプレイヤーだってなんだっていい。……そう思っているのに、彼はこの家に使命感みたいなものを感じているらしい」


の脳裏に、先ほどの景介の言葉が浮かぶ。今、ステージに立つ跡部からは、確かにこの地位に対する義務感やプレッシャーが感じられる。それがおそらく宍戸のいう「違和感」だとは思った。


「あいつも所詮人間や。限界がある。そのときどうなるかは場合によるし何とも言えんけど、一度崩れると立ち直るまでにちぃと時間がかかんねん」


(ずっと一緒にいる侑士たちは、跡部くんが耐え続けていることを知ってるんだ)
は彼らの表情の意味を察して、心の中で呟いた。



***



「やっと終わったCー」

挨拶を難なく終えた跡部がステージから降壇した。


「つってもどーせすぐには戻ってこねえんだよな」
「まあここには“跡部”っちゅーブランドとお近づきになりたい人間もたくさんおんねん。あっちへこっちへ引っ張りだこや。今頃愛想振り舞いてんやろ」
「そんなの跡部の仕事じゃねーだろー」
「そうはゆうてもパーティーは顔売んのも目的の1つやで。向こうも顔を覚えてもらいたくて来てんのや」

皿にとったロースとビーフにフォークを差しながら不満を露わにする向日を、忍足はグラスに入ったジンジャエールを啜りながらなだめる。忍足も向日の言うことに賛成だが、どうにもならないことを口に出そうとは思えなかった。

「ま、気長に待とうぜ。2、30分もすれば戻ってくんだしよ」

宍戸の言葉に、はちらりと腕時計を見た。時計の針から逆算すると、演奏の約束まではあと30分。今、挨拶の終わったステージでは室内管弦楽団が演奏を始めていた。ほどよい音量で会場内を漂う弦楽器の音は、会場を温めている。中には熱心に聞き入っている人もいた。
この後、自分もあのステージに立つ――自分で決めたことながら、身体が強張るのを感じ、は眉間に皺を寄せた。

(ここまできて、後には引けない……)
その気持ちがよりを追い詰める。固い表情を浮かべるに気づいた滝が声を掛けた。


さんどうしたの?具合悪い?」
「…大丈夫。慣れない場所に来て緊張してるだけだから」

は心配をかけまいと苦しまぎれに笑ってみるも、人の様子に敏感な滝には余計気になった。
近くで食事を進めていた日吉と樺地も、顔を上げ二人を見る。

「料理が温かいうちに何か少し食べよう?とってあげる」
「ありがとう、でも今あんまりお腹空いてなくって…」
「じゃあなにか冷たい飲み物でももらってくるよ。何がいい?」
「え、と、ありがとう。お水をお願い」

ちょっと待ってて、と言い残し、滝は人混みをススッと通り抜けていった。


「震えてますよ。寒いんですか」

珍しい人に声を掛けられた、とは目を丸くする。思い返してみても、挨拶程度しか交わしたことがない相手だ。声を掛けざるを得ないぐらい、自分は重症に見えているのだろうか。

「…そんなにわたしやばい?」
「顔色悪いし、震えてるし、やばいんじゃないんですか。こんなところで倒れられても困りますよ」
「今にも倒れそうなほど緊張してるんだね、わたし。弱いなあ」

苦笑するを、怪訝そうに日吉は見つめる。そこへ滝が水の入ったグラスを持って戻ってきた。グラスの周りは水滴で白くくもっていて、中身の冷たさを引き立てている。

「おまたせ、どうぞ」
「ありがと、わっ」

滝からグラスを受け取ったはずだったのに、グラスはは手を滑り落ちて重力に引き寄せられる。割れる!とが身を固くした瞬間、地に着くぎりぎりのところで日吉が伸ばした腕がグラスを掴んだ。グラスが粉々になる事態は防いだものの、その勢いで水がのドレスと日吉の手を濡らした。

「ったく、何ぼーっとしてるんですか」

日吉がグラスをテーブルに置くと、ハンカチで手を拭う。ジャケットとシャツの袖口も濡れてしまった。
ごめんなさい、と謝るの声があまりにも弱々しく、責める気にもなれない日吉は「別にいいです」とそっけなく答えた。

「水だから染みにはならないと思うけど」と言いながら、滝はしゃがんでドレスの水を吸い込んだ部分にハンカチを押し当てる。
が足元の滝と日吉の袖口を見て、私事で他人にまで迷惑を及ぼしてしまったことに肩を落としていると、一部始終を見ていた樺地が「先輩、日吉、服を乾かしましょう」と口を開いた。
「俺はいい」という日吉に、樺地は「それでは先輩が気にされます」と譲らない。

「これぐらいなら、ドライヤーですぐ乾くと思う。いっておいでよ」という滝に背中を押されて3人は会場を出ると、樺地が、見知った執事に事情を話した。
「着替えを用意したしましょうか」という申し出を全員で断り、なんとか部屋とドライヤーを準備してもらうことができた。
今、部屋の中では2台のドライヤーがフル稼働でブオオオと音を立てている。

「まったく、この家の人間は大げさすぎる」

日吉が自分の袖口を温めながら言うと、も樺地も少し笑った。

ドライヤーを持ったは、「あなたは座っていてください。裾でも踏んで破られたらさっきの執事さんにもう一度頭を下げなくてはいけなくなります」という樺地の最もな指摘を受け、大人しく椅子に座る。の手からドライヤーを取り返した樺地は、ドレスが痛まないよう充分間をとって温風を放った。足元がじんわりと温められ、の気持ちも落ち着きを取り戻していく。


「なんか久しぶりすぎて、緊張感をどうすればいいか分かんなくって。とにかく日吉くんも樺地くんも巻き込んじゃってごめんね」

の謝罪に、日吉を眉をひそめた。この人は、それほどまで一体何に緊張しているのだろう。何をやらかすつもりなのか、皆目見当がつかない。

「ね、自分の試合を待つ間ってどんなことを考えてるの?」
「なんですか急に」
「いいから」
「…まあそうですね、人並みですよ。どんな相手だろうとか、最初はサーブをどこに打とうとか」
「例えば、相手が見知った人だとして、怖れたりしないの?」
「はあ?俺は勝つためにコートに立つんですよ」

「怖れてたんじゃ、うちの部でのし上がることなんてできません」という日吉のピッと伸びた背筋や凛とした物言いがあまりに前向きで、は姿勢を正された気分になる。
(弾かなきゃ、何も始まらない)
は自分の手をぎゅうっと握りしめた。この手で、これから未来を生み出す。



***



「おー大丈夫だったか」

パーティー会場に戻ってきた日吉と樺地を見つけた向日が、「こっちだ」と片手を上げた。
そこには跡部の姿もある。ちょうど今挨拶回りが一段落ついたようで、跡部は「あちい」とネクタイを少し緩めた。

「あれ、は?」

向日がきょろきょろとあたりを見回すも、その姿は見当たらない。状況が通じない跡部に、忍足は「なんでか知らんけど今日落ち着きがないねん。さっき水をこぼして、ドレス乾かしに行ったとこやったんやけど」と説明する。

先輩たちから注がれる「はどこだ」という視線を受けて、日吉は「知りませんよ。なんか用があるって言われたんで、途中で分かれました」と淡々と応答した。その顔には、あっちもこっちも面倒だな、という煩わしさが滲んでいる。

「用っつったって、こんなところで何の用があるってんだ?」
「また跡部の親父さんか?……って、親父さんはあっちで談笑中だな」
「まったくどこへ行っちまったんだ」
「もしかして迷子!?」
「・・・ジローいきなり大きな声出すなや。耳が痛いわ。例え迷子やっても、だって自分でなんとかできるやろ」
「それはそうだろうけどさー。やっぱ気になんじゃん」
「まあ見とき」

食い下がる芥川に、忍足は冷静に答えた。落ち着き払った忍足の様子に、跡部は引っかかるものを感じ、眉を吊り上げた。

「忍足、てめえは何を知ってる」
「何も知らん。けど、は今日が正念場て言うとった。自分を変えるために頑張らなあかんて。それだけや」


その時、ふと顔を上げた鳳は、目線の先の景色に目を見開いた。


「あれ、先輩じゃないですか」


鳳の指が指し示す方向を一同が振り返る。その指の先には、パーティー会場前方、先ほど跡部が優雅なスピーチを発したステージがあった。
そのステージ上に彼女はいた。
その姿を見つめ、向日が、忍足が、滝が、宍戸が、跡部が息を呑む。芥川だけが笑った。


「はは、すげーよ、



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