「さあ魔法のはじまりだ」
の脳裏に、父の声が蘇る。
ep.4 奇跡の指
跡部たちが息を呑んで見つめる先には、漆黒に艶めくピアノに対峙するがいた。は椅子に浅く掛け、じっと目を閉じて動かない。胸元では手を温めるように右手が左手包んでいて、それはまるで祈りのようだった。
「あいつ、弾けんのか」
その場にいた誰もが向日の呟きに答えることはできず、その小さな声はそのまま会場の喧噪に溶けた。会場には、今もステージに上ったに気づくことなく時間が流れている。誰もがピアノを弾くことの重大さなど知りもしないし、知りようもなかった。
ただ、彼女と関わりつつある跡部たちは違う。が両親を事故で失ったことも、だけが運よく生き延びてしまったことも、その事故に少なからず彼女が責任を感じていることも知っている。ピアノを弾くことを怖れていることも容易に想像がついた。はピアノの話をしなかった。
だからこそ彼らは今ここでがピアノに向かっている現実に驚愕し、そして少し混乱した。彼女は何を思って弾くのだろう。先輩たちの沈黙に、事情を知らない鳳たちもただならぬ雰囲気を察して動きを止める。その場だけが緊張感で凍ったようだった。
の手がスッと鍵盤上に重ねられ、静かに演奏が始まった。起こる拍手もなく、ただひっそりと会場にピアノの音が響く。消え入りそうに小さな音だが、テンポはゆったりと流れる河のように穏やかだ。クレッシェンドでpからmpへ。会場全体に、ト長調特有の、陽の光のように明るく、囁きのように甘い調べが広がっていく。
「すごい」鳳の口から感嘆の声が漏れた。その目はぐっと見開かれ、ピアノを弾くに釘付けになっている。
ああ、こいつも子供の頃はピアニストを目指してたとか言ってたっけ、と隣に立つ宍戸は思った。
「何の曲だ?これ」
「シューマンの『子供の情景』ですよ」
「トロイメライのやつか?」
「はい。『子供の情景』は、13曲からなる小品集なんです。一番有名なトロイメライは7番目なので、演奏はもう少し後です」
宍戸と会話を交わす間も、鳳の意識はにむけられたままだった。鳳は、の一挙一動を目に焼きつけ、一音一音の響きも聴き逃さすまいとしている。まるでテニスをしている時のような集中力に、宍戸は閉口する。
「なんか、会場が変だ」
向日が違和感を口にすると、滝が辺りを見回して冷静に返答をする。
「みんな、さんの演奏に手を止め出した」
細い指が導く繊細で幻想的な音の重なりに、一人また一人と音の出所を探して顔を上げる。
「用意された舞台やなくても、拍手ひとつ起こらない空間でも、十本の指だけでこれだけの人を惹きつける……天才や」
のことなど見向きもしなかったパーティーの招待客の心を、は確かに音だけでつかみ、振り向かせている。
小気味のよいテンポから、階段を駆け下りるかのような速さへ。そして大事な思い出を手繰り寄せ、語り聞かせるかのような、あるいは、眠りに落ちる前の揺れのようなスローペースへと曲は忙しく移ろいゆく。
立ち止まったかと思えば背を押され、あっちへいったかと思えば引き戻される。『子供の情景』という名の如く、まるで、子どもが好奇心に突き動かされ、疲れも知らず新たな世界の扉を次々と開けていくようだ。多彩な音色と豊かなテンポで聴き手に休む暇を与えない。
いつしか、会場のほとんどが手を止め、の演奏に目を奪われている。
「……あいつ、すげえ緊張してたな」
演奏が続く中、向日がぽつりと口を開いた。
「震えてたのも、グラス落として水ぶちまけたのもさ、緊張しすぎてたんだよな。そりゃ怖えよな、こんな広くて人の多いところで演奏するなんてよ」
向日の言葉に、思い思い、今日のの様子を頭に思い浮かべてみる。そう言われれば、は部屋に通されたときからどことなく表情も動作も固かったことに気づく。
日吉が、「そういえば」と切り出す。
「ドレスを乾かしながら、『久しぶりすぎて緊張感をどうすればいいか分からない』と言っていた」
日吉がそう言うと、樺地が無言で頷いた。一同は顔を上げて、演奏に集中するを見遣る。その表情は、柔らかく幻想的な響きとは異なり、若干余裕がなく見える。襲い来る緊張感と圧し掛かるプレッシャーを背負い、必死で闘っているのだろう。
彼女がピアノを怖れている事情を知っている。弾かなくても、誰も責やしないのに。そんな気持ちが、起こらなくもない。
「自分を変えるため、か」
じっと息を凝らして聴き入っていた跡部が、吐き出すように呟く。
最後の音を延ばしきり、は静かに鍵盤から指を離した。まだ小刻みに震えている指を、軽く握る。
その瞬間、ワッと起こった拍手に会場の空気が震え、またの肩をも震わせた。何事か、という驚いた様子で、はピアノから会場へと視線を移す。しばらく会場を見つめ、どうやら拍手が自分に向けられていることに気づいたらしい。は慌てて立ち上がり、深々と頭を下げた。
そして拍手が鳴り止むのも待たずに、はステージ袖に駆け込み、舞台上から姿を消した。