「わたし、逃げなかったよ」
まだ心臓がばくばく音を立ててやまない。
暗いステージ袖で、は今だに震えが止まらない両手を握り締めた。

ep.5 スタートライン
がステージから消えた後も、会場ではしばらく拍手が鳴り続いた。それは彼女の演奏がどうであったかを物語っていたし、それがの演奏の評価だった。誰からの注目も集めず、拍手のひとつも起こらなかった始めとは対照的な結末を、自身は勿論のこと、跡部たちも想像していなかったことだろう。
「監督がさんを音楽から離したくなかった理由、分かるような気がする」
温かい拍手に包まれる会場を眺めながら言った滝の言葉に、各々が、数ヶ月前にと出会った日のことを思い出す。
ある夏の日、榊に連れられてきて、期間限定で部活を手伝うことになったと紹介された。あまりに突然の出来事だった。
無表情で、他者を寄せ付けない空気を纏っていた。その態度に苛々していた向日が八つ当たりをして、榊のもとへ話を聞きに行った。そこで、が両親を事故でなくしたこと、転校を希望するを、音楽から離れないようにと榊が引き止めたことを知った。
確かに、これだけの演奏ができる人間が音楽から手を引いてしまうのは惜しい。事故というアクシデントがあったとしても、だ。の演奏を見た今、レギュラーたちにも榊の気持ちがよく分かる。
「のやつ、なかなか戻って来ないな」
ステージでは再び管弦楽団が演奏を始め、招待客たちの意識も中断していた歓談へと向かう。それでもなかなか戻ってこないに、向日が痺れを切らした。話したいことがたくさんある。
「俺ちょっと外見てきていい?」
我慢できない、と落ち着かない向日に、忍足が苦笑を漏らす。ただ、じっとしていられないのは他も同じようで、どこかそわそわしている。
「ったく……」
跡部はまだ姿を現さないのことを考える。緊張感とプレッシャーから解き放たれて、きっと今はクールダウンの最中だろう。
にピアノの話はタブーだろうと、これまでは意図的に避けてきた。のコンサートがきっかけで彼女の両親が飛行機に乗り込み、墜落事故に巻き込まれたのは事実で、彼女がピアノを弾いてきたことを後悔し、怖れ、遠ざかろうと考えたことは容易に想像がつく。思いやりといえば聞こえはいいが、それではいつまでも自分たちとの間にある距離は変わらない。
しかし今、自らその距離感を壊そうとしている。距離を縮めるように、真っ直ぐと大きな一歩を踏み出してきた。全身を震わせて、必死に演奏をするの姿が目に浮かぶ。その一歩に、どれほどの勇気と決意を要したのだろう。
パーティー会場を出ると、外はもう日が落ちていて、かすかに残ったオレンジや赤紫の空を藍色が飲み込もうとしていた。等間隔に設置されている西洋風の外灯が、ぼんやりと広い中庭を照らす。パーティーの賑やかさが嘘のように静まりかえった中庭のベンチに、はいた。
背もたれに身を預け、闇に染まる空を仰ぐ彼女の姿は、疲れているのだろう、じっと動かないでいる。横からでは表情を読み取ることができない。視界にをうつした彼らは、少し離れたところでそっと歩みを止めた。
「……」
躊躇いがちに向日が声を掛けると、は視線を向日たちへと移す。その顔には、軽い緊張感に見舞われている彼らとは似つかない、穏やかな笑みを湛えていた。
「ごめん、なかなか戻らないから探しにきてくれたんだね」
が、よいしょと立ち上がる。パーティー前のと見た目は何一つ変わっていないのに、確実に何かが違っている、とそこにいる誰もが思った。ぴんと伸びた背筋の纏う、凛とした強さ。それはまるで、乗り越えようと立ち向かう者にのみに許されたかのような眩しさ。跡部は一瞬視界が歪んだような感覚に見舞われる。
少しの距離を保ったまま、お互いに見つめ合う。跡部たちから一斉に視線を注がれるは、動じることもなく落ち着いて一人ずつと目を合わせていく。跡部、忍足、向日、宍戸、滝、鳳、日吉、樺地、確認するように、ゆっくりと。まるでスローモーションのように時の流れが緩やかに感じられた。彼らは何かの儀式のようなその数秒間、黙っての言葉を待った。少し風が強くなってきた。
「えっと、」
息を吐きながら、言葉を紡ぐ。一つずつ、じっくりと選ばれた言葉が唇から現れる。
「まずは、黙っていてごめんなさい。跡部君の誕生日会をいいように利用したと思われても仕方ないと思ってる。サプライズとか、そういう気持ちであればまだいい。でも、わたしは自信がなかった。もしかしたら当日逃げ出すかもしれない……そう思ったら言えなかった」
初めて語られるの感情に、レギュラーたちはじっと聴き入る。まっすぐと心へ届いてくる、素直な言葉。
「ほんとは朝からぶるぶる震えてて、怖くて、逃げ出そうと何度も思った。わたしが弾くことは景介さんにしか伝えてなかったし、止めることは許されてた。実際、景介さんだって本当に弾くとは思ってなかったと思う」
洪水のように、言葉が次から次へと溢れる。
「ドレスに水をこぼして、もう今日は無理だ、やめようって決めた。弾きたいって自分で言い出したくせにこの様なんてやっぱりだめだわたしって思った。でも、日吉が言ったの」
ふいに呼ばれた自分の名前に、日吉が眉間に皺を寄せた。何を言い出すんだろう。風がごうごうと吹き、髪を揺らす。
「『俺は勝つためのコートに立つんですよ』って、痺れた。全身を雷で撃たれたような衝撃だったよ」
の表情が緩む。まいった、と眉を下げて笑っている。
「わたし、何にもしてないじゃん。なんにもせずに克服しようなんて、ばかだなって吹っ切れた。吹っ切れたら、あとは簡単だった。気付いたときには弾いていて、気づいたときにはほら、こうしてみんなの前に立ってる」
「『お前は何で認めさせる?』って言われてからずっと考えてた。ううん、考えなくても最初から結論は出てたんだよ。わたしはピアノを弾く。ピアノを弾く自分を誇りたい。この前の試合の時、真剣にテニスと向き合ってひたすら攻め続けるみんなを見て、ああ、この人たちと同じラインに立ちたいって思ったの」
ビュウウウ、と風が音を立てて吹き抜けた。の声は清々しいまでに透き通り、さっぱりとしている。そこには、これまでの自分を苦しめ続けた絶望も、不安も、迷いも跡形もなく姿を消していた。憑き物が落ちたようだとは、きっとこういうことを言うに違いない。
「わたし、ピアノともみんなとも真剣に向き合うよ。改めて、よろしく」
そうが言い終える前に、うれしそうに瞳を輝かせたジローが駆け出し、勢いのままに跳びつきかねないジローを岳人が追いかけ、それを見て慌てて宍戸も走り出す。3人に追随するように、笑みを浮かべた鳳が日吉と樺地を引っ張っていく。
そこにあったはずのとの距離は一瞬で縮まり、あっという間にを囲む輪になった。に抱きつこうとするジローの頭を、「調子に乗るんじゃねえ」と宍戸が叩き、けちだのなんだのわいわいと騒ぎ始める。緊張感が解けた安堵で、各々の表情は明るい。
その様子を、滝と忍足と跡部は元の場所から静かに見守る。
「強いんやな」
忍足の抑揚のない呟きにはどこか影がある、跡部と滝はそう思いながらも、あえて触れようとはしない。過去も現実も全て受け入れて向き合おうとするの輝きが作りだした影。その輝きを素直に認められない後ろめたさ。それは少なからず忍足だけにあるのではないらしい。
「僕はそんなに強くなれないよ」
風で揺れる髪を軽く押さえながら、滝が目を伏せて困ったように笑った。
もうすっかりと日は暮れ、辺りは闇に包まれている。気温が落ち、肌寒さを感じるほどだ。そんな闇を睨む跡部の様子に、ふと忍足が気付いた。
「どないしたん。跡部」
「いや……。さっきからずっとこっちに視線を向けているやつがいた」
「知り合いか?」
「分からねぇ。招待状を送る相手を決めてるのは親父だからな」
「そいつのどこが気になるんや。見てるぶんには害はないやろ?」
「……好意的なもんじゃないのは確かだ。それに、見ていたのは俺じゃねえ」
忍足と滝が顔を見合わせる。
「……を見てたってこと?」
「どういう目的かは知らねえが、こそこそしてる時点でろくな奴じゃさそうだな」
跡部は、輪の中心で表情を綻ばせるを目を向ける。出会った頃の無表情が懐かしい。何もかもつまらなさそうにしていたあの時より、緊張したりほっとしたり真剣になったり笑ったり感情を素直に表現する今の方がずっといい。この時、自分の中で初めて湧き上がった感情に気付く。守りたい――監督に言われたからではなく、心からそう思う。
「冷えてきた。戻るぞ」
跡部は誰もいなくなった闇をもう一度睨みつけ、自分に言い聞かせる。
守ってやるさ、この先どんなことがあろうとも。