私のピアノはあの日死んでしまった。あれほど好きで、暇さえあればピアノの前にいた私から、事故はすべて奪っていった。ただ死んだ音しか出せなくなった自分が怖くて、いっそピアノから離れてしまえばいいと思った。だけど、そんなことは出来なかった。



05



「……太郎さんに、連絡しなきゃ」


私は自宅の前に立っていた。両親が亡くなる前、私達が住んでいたマンション。最後にここを出たときと、何ら変わりはない。違っていることいえば、この家に住んでいる人がいなくなったということだけ。

ひとつ年下の弟のは、祖父母の家に下宿して、青学高等部に通っている。私も青学に転校しようと思ったけれど、太郎さんは強く復学を勧めた。多分それは、私が音楽から離れてしまわないようにという太郎さんの優しさだと思う。その時私が氷帝復学に出した条件は、私を自宅から通わせること。父の親友で、小さい頃から私の面倒を見てくれた太郎さんは、「も下宿しているし、私の家から通えばいいじゃないか」と言ってくれたけど、そこまでお世話になりたくはなかった。ただでさえ出席日数が足らず留年すべきところを、太郎さんは復学できるようはからってくれた。(もしかしたら反対もあったかもしれないのに)太郎さんには感謝している。だからこそ、一緒に住めばよいという提案を受け入れることは出来なかった。
結局、太郎さんは渋々私の条件を受け入れてくれた。そのかわり、新学期が始まるまでに1ヵ月は太郎さんの家で入院などで遠ざかっていた家事などに慣れることになっているのだ。

今、帰る家は自宅ではない。それでも、私はここに来てしまった。思わず、苦笑がもれる。鍵を取り出して、開ける。カチャリと静かな音がしてドアを開けると、久しぶりに見る我が家があった。

何にも変わってないんだ。


一度掃除に来ないと、と思い、埃がかったフローリングの床をひたひたと歩く。家の中はどこも懐かしい匂いがして、少し胸が苦しくなる。もう、どうしようもないのに。


足は自然とグランドピアノが置いてある父の仕事部屋に向いた。椅子に座り、黒塗りの蓋を開けて白と黒の鍵盤を見つめる。あれほど、ピアノを見るのは嫌だったのに。父との思い出が言い表せないほどつまったピアノの前に、こうして取り乱すことなく座っているのはなんだか不思議な気持ちがする。
鍵盤をひとつずつ右手の人さし指でたどった。ド、レ、ミ、ファ、ソ、一音もくるってなどいなかった。半年以上もほったらかしにしてあったのに。






そのまま何時間も過ぎたみたいだった。私が気付いた時、すぐうしろに太郎さんがいた。玄関の鍵が開いたままなんて無用心だぞ、と言う太郎さんの額には、うっすらと汗が浮かんでいた。


「すみません、連絡しようと思ってたのに…」
「構わないさ。がいる場所は想像がつくからな」


太郎さんが私の髪を長い指で梳きながら、弾かないのか、と言った。情けないことに私はただ、弾けないよ、としか返せなかった。
弾けるわけがなかった。今の私には、きっと死んだ音しか出せない。ピアノにむかうのが怖い。


「今日は綺麗な月夜だ。の月光が聴きたいのだが」
「……弾かなきゃいけないときに弾けない私に弾く資格なんて……」
「まあ、そう言うな」

私が立ち上がると、太郎さんは椅子に座り、月光の第一楽章を弾き始める。ずっと気付かなかったけれど、もうとっくに暗くなって窓から月明かりが差し込んでいた。幻想的な光と、太郎さんの重厚な音。冷え切っていたピアノに、温かみが戻るようだ。


「太郎さんみたいな音、出せたらいいのに……」
「自分の音は?」
「感情がこもってないもの。いくら感情を込めようと思っても、どうしても逃げてしまう……」
「焦っても仕方がないだろう」


太郎さんは優しい。私を一度も責めたりしなかった。太郎さんにとっても、父はかけがえのない大切な友人だったのに。泣いて謝った時も、太郎さんは「お前がこうやって生きているだけで、私は幸せに思っている」と背中を撫でてくれていた。


「……太郎さん、あそこに私の居場所はありませんでした」


今日、テニス部の男の子に言われた言葉。ただの八つ当たりかもしれないけれど、間違ってはいないと思う。仕事を教えてもらった一年生から、マネージャーはレギュラーの推薦がないと出来ないと聞いた。私はレギュラーの人なんて知らないし、新学期が始まる前に人馴れすると良いと太郎さんに勧められただけだ。人馴れを目的で手伝おうとする私に、居場所なんかあるはずもない。


太郎さんは手を止めずに言う。


「居場所は、与えられるものじゃないだろう?居場所というのは自分でつくるものだ。まだ始まったばかりなのに、どうして諦めてしまう?」


時々、物凄い不安と孤独に駆られることがある。この世界に自分の居場所はどこにもないのではないか、と。私の居場所はここだ、と言える場所が欲しかった。誰かに必要とされる存在でありたかった。


「早々と決め付けるな。ピアノだって、弾きもせずに怖がっているのだろう。最初から諦めていても、何も生まれない」


それはお前が一番良く判っているはずだ、と言う太郎さんの表情は穏やかだった。



「今日、お前の過去を、少し人に話した。テニス部の二年で、私がもっとも信頼している生徒たちだ。彼らはきっとお前を理解しようとしてくれる。少し、勇気を出すことだな」



月光を綺麗に弾き終えると太郎さんは立ち上がった。「あいつらにも成長が必要だしな」と少し微笑んで、宜しく頼む、と私の頭を撫でた。目から流れる透明な液体を見られたくなくて、私は太郎さんの胸を借りて少し泣いた。



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