人間誰しも生まれ持った定めに従い生きている。俺は跡部家に生まれ、この伝統ある跡部の名前を引き継ぐ責任を持って生まれてきた。それは自分でも承知していたし、投げ出そうと思ったこともなかった。
人は定めを変えられない――ずっと変えようと必死になる奴らを見下してきたのに、どうしてかあの時だけはできなかった。



04



音楽準備室には、監督と向日が居た。怒鳴って部室は出たものの、気まずくなって帰るに帰れず、については監督に聞くのがいいだろうと思った――大方そんなとこだろう。

「適当に座ってくれ。コーヒーでも淹れよう」
「おかまいなく」


音楽準備室には監督のデスクとテーブル、ソファがあり、本棚となっている壁にはたくさんの楽器の楽譜がびっちりと隙間なく並んでいる。ここにいるのは大抵が監督で、他の教師が来ることは少ない。俺がソファに腰を下ろすと、他の奴らも適当に座った。向日の隣には忍足が座り、何か言っているがよく聞き取れない。他の会話もなく、結局今日何度目かの静寂が準備室に広がり、監督が来るのを声を潜めて待った。(お互い何を考えているのかはわからなかったが)

少し経ってから監督はコーヒーを運び、戻ってきた。コーヒーを淹れるだけにそんなにかかったのだろうかという疑問も湧いたが、特に何を言うわけでもなくコーヒーを啜った。



について聞きに来たのだったな」


俺の正面に腰を下ろした監督は、焦らすわけでもなくすぐに本題を口にした。その表情はいつもと変わらなかったが、声はなんとなく震えていたように憶えている。「長くなるだろうが、時間は大丈夫か」と監督は俺達を見渡したが、誰も何を言わずにこれから監督の口から出てくるであろう言葉に耳を傾けた。……今思えば、あの時監督も俺達に告げるかどうかで悩んだのだと思う。
監督はやれやれ、という表情を浮かべると、一つの問いを口にした。


「……ピアニストのRENを知っているか」


何を言い出すのかという顔で、他の奴らは顔を見合わせた。


「ピアニストのRENっていったら……RENだよな」
「“奇跡の指”の、あのRENやろ?」



ピアニスト・REN
楽器のひとつやふたつ出来て当然の学校に通う俺達が、知らないわけはなかった。
10代のうちから名前が世界に知られ、世界でも指折りのピアニストだ。力強く、しなやかに、時には物凄い早弾きを見せるその指使いは比べるものがなく、彼の指は「奇跡の指」と呼ばれ、現代のリストと称えられていた。



「でも確か、飛行機の墜落事故で亡くなったんだよね」
「もう半年以上経つけどよ、事故当時はファンで凄い騒ぎだったよな」
「僕もすごくショックで、なかなか立ち直れなかったよ」



そうだ、滝や宍戸が言うように、RENは飛行機の墜落事故に巻き込まれて亡くなっている。ちょうど海外コンサートにむけ、日本からフランス向かっている途中だったらしい。確か夫婦ともに亡くなったと聞いた。当時は毎日くどいほど、墜落した飛行機がごうごうと燃えているシーンをテレビで観た。まだ40代前半で、容姿も良く、つねに世界の音楽界の中心にいたピアニストの死は、世界を騒がせた。
俺も、さすが「奇跡の指」と言われるだけのことはある、と思っていた。今でも、たまにCDを聴くたびにそう思う。俺はあまり覚えていないが、昔はうちのパーティーに呼んで演奏させたこともあるらしかった。

何だってまたピアニストの話なんかを、と俺は監督を見ると、監督は目を伏せていた。




は、RENの娘だ」



全員が驚愕といった感情を浮かべ、監督を凝視した。監督は気にすることもなく、そのまま独り語りを続けた。




「RENの本名は蓮。彼は私の高校時代の先輩だった。世界は彼をピアノの天才として称えるが、実際人間としても素晴らしい人だった。私が今こうして教師をしているのも彼のおかげだと思っている。
私と彼は卒業後も連絡を取り合っていた。だから、今に至るまでを生まれた頃からずっと見てきた。――は、本当に綺麗に笑う素直な子だった。

すべてを変えてしまったのは、彼の、いやの両親の事故だ」




監督は一度そこで言葉を切り、窓の外の闇に視線を浮かばせると、溜め息を一つ零した。

俺は何と言ったら良いのか判らず、ただ監督の言葉を聞いていた。本当に、言うべきことが浮かばなかった。返事一つ、頷くこと一つできなかった。脳が、この先を聞くことを拒否しているような感じがした。何も考えられない、という経験はこのときまでしたことがなかったと思う。俺はいつも、返す言葉を持っていたのに。(それがたとえ残酷であっても)
多分それは俺だけじゃなくて、そばに座っている向日も、忍足も、宍戸も、滝もだ。俺を含めて、全員が呆然というのが似合うような顔をしていた。
監督は多分、こうなることを予想していたのだろう。俺達はどんなに大人びていても、頭は所詮17歳なのだから。




「そのとき、彼が予定していたコンサートは、世界の音楽界にとってはただのコンサートではなかった。――そのコンサートは、音楽界への『天才ピアニストの娘の披露コンサート』だったのだから」


監督は、「まあ、実際にははとても高い熱を出し、急遽フランスへ行くことが出来なくなった。だから仕方なくコンサート内容を変更して夫婦だけで向かうことになった」と付け加え、黙った。



つまり、それは。
もしあの時、が熱を出さず、予定通りにコンサートのため飛行機に乗り込んでいたら――そこまで考えて、俺はゾッとした。体中の皮膚全てに鳥肌が立った。



――もしそうだったら、もあの墜落事故に巻き込まれ、テレビで観たごうごうと燃える炎に焼かれて、死んでいた――



頭の中で、自動的にいつか見たテレビのシーンが蘇った。やめてくれ、と俺の心は叫んでいた。
監督の話は無情にも続く。




「事故の知らせを聞いてすぐ、の祖父母は、と彼女の弟を連れて日本を発った。焼け跡からは、RENの持ち物だった耐熱性の黒いトランクだけが出てきたと聞いている。しかし、多くの人間が何千度という高温に焼かれた中からは、彼と奥さんの骨を見つけ出すことはできなかったそうだ」



やめてくれという言葉が、喉まで押し寄せていて、少しでも気を抜くと飛び出してしまいそうだった。すでに、向日は泣いていた。忍足、宍戸も、滝も青ざめている。滝は、口元を手で覆っていた。感受性が人一倍強い滝は、監督の言葉のまま、頭の中で想像の再生をしていたのだろう。
多分全員が聞かなきゃ良かったと後悔していたと思う。そんな俺達を気遣ってか、監督は「もうやめるか」と言った。


「お前達がこれ以上の深入りを拒否するのなら、これ以上話すことはない。今聞いたことは彼女の過去として頭の片隅に残しておけば良い。私はお前達に無理に聞かせようとしているわけではない」


お前達が決めろ、そう監督は声に出さずに語った。これ以上聞くことを拒否すべきだ、と思った。他人の過去なんてどうでもよかった。しかも今日まで顔も知らなかった女の過去。
もしあの時、拒否していれば俺達の運命はもっと違っていただろう。何も考えずに、ただ時が流れ大人になっていたはずだった。大切なものに、気付かぬまま。

でも俺の口から出たのは、拒否ではなかった。あれほどやめてくれと思ったのに、俺は正反対のことを言った。知りたい、と。
他の奴らは何も言わなかった。少し俺は視線を感じたが、奴らは先ほどまでと同じようにただ黙っていた。
沈黙は肯定――監督はそう受け取ったのか、再び話は始まった。





『どうして私は飛行機に乗らなかったのだろう。どうして私だけ生き残ったのだろう。どうして私も一緒に死ねなかったのだろう!』




は、両親が死んだのは自分のせいだとひたすら自分を責め続けた。私もすぐにフランスへ飛んだが、彼女はただ何度も何度も声が枯れても泣きながらそう叫んでいた。当然の如く、ズタボロになったの精神は責め続ける自分に耐えることが出来なかった」

「結局、は自殺未遂を起こしてそのまま半年間の入院。やっと人並みに生活出来るまでに回復し、弟や祖父母の居る日本で暮らしたいという本人の希望で、先週帰国した」





この世に偶然なんかありはしない。両親の死も、が生き残ったことも、すべては必然。なあ、どうしてお前はそれを受け入れない?一度受け入れてしまえば、死のうなんて無駄だと判るだろ?




「……しかし監督、先ほどは『自分は望んでここにいるのではない』と言いました」


そういった俺に、監督は、「そう言われても仕方が無いな」と呟く。


「もともと本人は転校を希望していたが、それを私が強引に復学にさせたのだ。そうでもしなければ、はきっと音楽から離れてしまっただろう。ここなら、整った環境もあるし、指導者も豊富だ。あえて他の学校に変えて、彼女が音楽から離れていくのを黙っていていることなどできなかった。先輩のためにも、彼女のためにも、に音楽を捨てないでいてもらいたかった。それが、事故の時何も出来なかった自分にできることだと思っている……。
それに事故以来、彼女は人と付き合うことが極端に苦手になってしまった。テニス部に連れてきたのも、新学期までのリハビリだ。
夏の間だけでいい、迷惑かもしれないがをテニス部においてやってもらいたい」















「なあ、俺ら大丈夫かな。あいつと、ちゃんと向き合えるかな」


帰り道、すっかり暗くなった道を静かに歩きながら、岳人がぽつりと言った。

向き合えるかどうかではなく、俺達はこの出会いに向き合わなければならないのだ。の心の傷は想像を絶するほど、深い。そこにはただ混沌とした闇が、何かをじっと待っているかのようにひそかに佇んでいる。
しかし俺達は少なくとも夏の間、その闇と向き合う運命にある。偶然ではなく、運命。俺達は闇の中を手探りでと付き合わなければならなかった。俺はあの時、確かに不安に思っていた。先の見えない不確かさと、彼女の背負うものの重さに。

俺は何も言わず、前だけを向いて歩いた。


誰かに。何かに。肯定してもらいたい、のか。おまえの生きてきたその軌跡を


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