「…眠れない」





ゆ ら り 月   >>第一章・二





そう呟くとはもう何度目か分からない寝返りをうった。
数えた羊はもう三百匹を超えている。

…眠れないのだ。

それも今日だけではない。ここに来てからまだ一度も睡眠をとっていない。
朝は朝飯の準備のため早く起き、昼間は掃除や洗濯に追われ、夜は次の朝飯の下ごしらえをする。
隊士の数は何百。忙しくないはずがない。

そんな生活を始めてもう二日間。
身体は疲れきっているはずなのに。
朝寝坊しそうなぐらい疲れているはずなのに。
どうしてか寝付けない。


「なんで眠れないのよ…」
布団をを頭まで被り、真っ黒な視界の中で呟く。


どうして眠れないのか。
眠れないのは頭の中で渦を巻く不安のせいだとは気付いている。
しかし、考えたところでその不安が減るわけではない。
不安はもっと大きなものとなり、重くの頭の中に積もっていく。
考えてもどうにもならないのなら、考えないようにするしかなかった。
昼間はいい。歩さんもいて、鉄之助も沖田さんもいる。
でも夜、こうして独り布団の中にいるとどうしても現代のことが頭をよぎる。


は起き上がり、前髪をかきあげた。

「父さん、探してるだろーな…」




そっと目を閉じると思い出されたのは昔のこと―――


あたしがまだ小学校に上がった頃のことだ。

剣道ばっかりやって育ったあたしは、小学校に上がってもやっぱり剣道ばっかりやっていた。
朝起きたら素振りをして、帰ってきたらすぐに正平さんの道場へ。
平日も休日も、毎日そうだった。
遊ぶ暇なんかなくって、いつも素振りか稽古ばかり。
クラスの女の子たちが人形遊びやお飯事(ままごと)をしているのが羨ましくてたまらなかった。
あたしの持っているのは竹刀で、人形なんて一体も持っていなかった。
具合が悪い時でも「道場へ行きなさい」という父親に、遊びたいなんて口が裂けても言えない。
その頃もう母親はいなかったから、「遊びたい」とか「お人形が欲しい」なんて言える相手はいなかった。

ある日、道場に行く途中で公園に寄ったときだった。
その日は朝寝坊をして朝の素振りが出来なかったから、道場に行く前に素振りをしようと思っていた。
すると公園の砂場には、同じクラスの女の子が二人。
彼女らが手に持っていた人形を見て、無性に悲しくなったのを今でも憶えてる。

やっぱりこのまま道場に行こう、と踵を返すと後ろから名前を呼ぶ声が聞こえた。
それは砂場にいたクラスメイトの声。
「ねー、ちゃんも一緒に遊ぼうよ」
もちろん女の子となんか遊んだこともなかったし、人形だって持っていない。
そうやって言っても、彼女たちは「いいからいいから!」とあたしを砂場まで引っ張っていった。

初めてやった人形遊びもお飯事も楽しかった。このままずっと遊んでいたかった。

日が落ちて辺りが薄暗くなったころ、あたしは道場に行く途中だったことを思い出した。
いつもはもう稽古が終わっている時間だ。
どうしたらいいのか分からなかった。
「大丈夫だよ」「ごめんなさいって言えば許してくれるよ」と彼女らに慰められ、あたしはとぼとぼと家に帰った。
「また遊ぼうね」という彼女らの言葉は、あのときのあたしには届いてなかったと思う。


家に帰ると、正平さんから連絡を受けた父親がとても怒っていた。
叩かれたりはしなかったけど、いっぱい怒鳴られたような気がする。
もう何を言われたかはあまり憶えてはいないけれど。
「どこで何をしてたんだ!」「稽古だって知ってたんだろう!」
…あたしは何も答えなかった。
理不尽に怒鳴られたあたしは、酷く悲しくて酷く腹が立ってしかたがなかった。
“あの子たちは遊んでいるのに、どうしてあたしは剣道なんか…”


「剣道なんか嫌いだッ!」


泣きながら叫んで、あたしはそのまま家を飛び出した。
稽古帰りに仲間とかくれんぼをする神社まで来ると、いつも隠れる場所で独り泣いた。
あたしだってクラスの女の子と人形遊びしたかっただけなのに。
分かってくれない父親が恨めしくて。
泣いて泣いて泣いて。気が済むまでわんわん泣いた。


あたしはそのまま眠ってしまったらしく、次に気づいたときには父親におんぶされていた。
あたしが起きたのに気付いたのか、父親がぽつりぽつりと話し始める。

「さっき、お前のクラスの女の子とその子のお母さんが来てな…」

公園で一緒に遊んでた女の子が母親を連れてうちまで来ると、
「私が悪かったから、ちゃんを叱らないで」と言ったというのだ。
「叱られたらちゃん、もう私と遊んでくれなくなっちゃうから…」
そう一生懸命に話す女の子を想像して、あたしはまた泣いた。
ただただ、嬉しかった。

その後、父親におぶられて家に帰ると、二人で遅い夕食を食べた。
「稽古黙って休んで御免なさい」と謝ると、父親は頭を撫でてくれたような気がする。
「…お飯事、初めてやったよ」というと、父親は優しく笑って「楽しかったかい」と訊いてくれた。
こんな会話をしたことがなかったあたしはとにかく嬉しくて嬉しくて、夢中で今日の話をした。
初めてのお飯事に、初めての人形遊び。楽しかったことを一生懸命に話す。
「今度、お人形を買いに行こうか」
と父親が言ったときには、あたしはまた泣いた。

それからは、週に一回だけ稽古が休みになった。
休みの日は決まってクラスの女の子と一緒に遊んだ。あるときはお飯事だったり、人形遊びだったり。
これは律子さんが後でこっそり教えてくれたんだけど、
あたしが家を飛び出していったとき、父親は死に物狂いであたしを探したそうだ。
その顔は今にも泣き出しそうだったとか。



父親の心配性はあの時から変わっていない。
いつもより帰ってくるのがちょっと遅いと、何度も携帯に電話をいれてくる。

「さっきちゃんと連絡入れたじゃない!」
「ああ、スマン、忘れてた…」
こんなやりとりは日常茶飯事。


…そんな父親が今頃何を思っているのかと思うと、あたしは胸が痛くなった。


目頭が熱くなってくるのが、自分でも分かる。
寝巻きの袖で目をこすると、は布団から出た。

は障子を開け、縁側に腰掛けた。




「月が明るいなー」

まんまるではないけれど、あたしが来た日よりももっと赤い色をした月。
あたしが来た日の冷たい白じゃなくて、暖かい赤。


あの日、父親の背中におぶられて見た月によく似ている、そう思った。




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2004.04.03