足音が聞こえる。





ゆ ら り 月   >>第一章・三





土方はしんと静まり返った闇に耳を傾けていた。
遅くまで書き物をし、床についたのは夜八ツ過ぎ。
そしてうとうとと眠りにつき始めた頃、微かだが障子の開く音と足音を聞いた。


(…脱走か)

珍しいことではない。むしろその逆だった。
隊規を恐れ、夜中に脱走を謀る奴らも少なくない。
そういった奴らのお陰で、どうも足音には敏感になった。


「…はっ、夜中なら逃げ切れるとでも思ったら大間違いだぜ」

土方は掠れた声で呟くと枕元にあった刀を掴み、布団から出た。
隊規がある限り、みすみす逃がすわけにはいかない。
くそっ、余計な仕事増やしやがって、と心の中で毒を吐き、障子を開けた。


これぐらい明るけりゃ、火はいらねぇな。

月の光が、縁側をぼんやりと淡く照らしていた。
土方は気配と足音を消し、微かに聞こえた足音を探していく。
そして刀はいつでも抜けるようにと強く握られている。

廊下の突き当りを曲がると、ふっと人の気配を感じた。
土方は進むのを止め、物陰から見張る。
が、その気配は一向に動く様子が無かった。


(誰だ?)

土方は再び歩を進めた。
一歩一歩進むたび、視線の先には人影が現れ、はっきりと形を成す。
そこにいたのは、土方が最も警戒している人間だった。

どうやら縁側に座っているだけで、別に逃げようとしているわけではないようだ。
土方は静かに近づいた。




「…何してんだ」

土方は小さい、されど鋭い声をの背中に投げかける。
は肩をぴくりと震わせると、ゆっくりと振り向いた。

「あー、土方歳ぞ…じゃなくて土方さん」

は、歴史の本を読むようにフルネームで出かかった名前を慌てて言い直す。
少なからず、の今いる時代では土方歳三は生きているのだ。
まして雇ってもらっている分際で「土方歳三」などと呼び捨てでは呼べない。
浮かんでくる涙を必死にこらえて、は土方を見上げた。


「土方さんはこんな時間まで仕事してるんですか」
「違う。足音が気になった」
「(あたしのせいかよ)…すみません」


二人の間に沈黙が流れる。
痛いのだ。土方がに向ける視線が。
明らかに疑いを持っている視線。それは暗闇の中でもぴりぴりと伝わってくる。
も土方に疑われていることには気付いていた。
居心地が悪いな…、はそう思い俯く。
先に口を開いたのは土方だった。


「…こんな時間に何してんだ」

再度訊かれた質問には閉口した。
流石に現代が恋しくて眠れませんなどとは言えない。
ずっと寝ていないの頭で物事を考えることは出来なかった。
出るのは唸る声だけ。



「…眠れないんです」



下を向いたまま、はボソリと呟いた。
土方はの近くに腰を下ろし、昼間に沖田が言っていたことを思い出す。


さん、よく働いてくれるって歩さんが言ってましたよー。
でも、今日はあまり顔色がよくないみたいですね。
何か青白いんですよ。元気も無いみたいですし。
食事は食べてるようなんですけど…睡眠不足ですかね?”


土方はの顔を目だけ動かして見た。
月明かりに照らされているからか、真っ白い顔。手。
暗闇の黒の中ではそれらの白が一層良く映える。


…こいつ、まさかここに来てから一度も寝てねぇのか?


「いつから寝てねぇんだ」

はははっ、と曖昧な笑みを浮かべただけだった。
土方は溜め息をつく。


「…一度も寝てねぇのか」
「…はい」

情けないことに。と付け足し、は困ったような表情を浮かべる。
そして何も言わず、月を見上げた。
土方も掛ける言葉が見つからず、黙って月を見上げる。



どのぐらい時間が経っただろうか。がぽつりぽつりと話し始めた。

「土方さん、あたしね、高校出たら一人暮らしするって決めてたんですよ…」


土方は、“高校”や“一人暮らし”という言葉が何を示しているのかは分からなかったが、ひとまず黙って聞くことにした。
はそんな土方の様子には気づかず、話を続ける。



「今は父親と狭いアパートに住んでて…父とは違う部屋で寝てるのに、いつもいびきが聞こえてきてー…」

本当に五月蝿くって。あまりに五月蝿いから何度鼻を摘まんでやろうと思ったことか。



「早く、こんなアパートじゃなくて広くて日当たりのいい部屋で一人暮らししたいってずっと思ってた…」

親馬鹿な父親から離れたかった。一人でする生活を味わってみたかった。



「…でも駄目みたい。たった三日で、あのいびきで五月蝿くて堪らなかったアパートが恋しいんだから」



そこまで言うと、は袖でゴシゴシと目をこすった。
この人には見られたくなかったのだ。


すると、終始黙りこくっていた土方がすっと立ち上がった。
そして障子が半分開いているの部屋へズカズカと足を踏み入れる。
は土方の様子をただただ見ていた。


部屋に入った土方は、めくれた掛け布団を適当に戻すと、敷布団ごと乱暴に折り畳んだ。
そしてそれを肩に担ぐと、そのまま廊下で出る。



「ようは独りだから寝られねぇんだろ。いびきは掻かねぇが、隣で寝かしてやる」

早くしねぇと冷えるぞ、さっさと来い。
土方はそれだけに言うと、すたすたと自分の部屋に向かって歩き出した。




「あ、あたしの布団…」
はすたすたと行ってしまった土方の後ろ姿を呆然と見ながら、困ったように言った。




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2004.04.10